Tuesday, October 30, 2007

「世界一やさしい問題解決の授業」のニュース(続き)

 前回のブログで、日本には日本の問題解決の授業方法があり、かつてそれは世間の常識だったと思わず書いてしましました。それについての続編です。

(シーン1)
 子「おかあちゃん、コショウ出ぇへんわ。」
 母「なんでよ?湿ってるん?」

 子、トントンとコショウの容器をたたいて中の様子を見る。

 子「いや、湿ってないよ。」
 母「そしたら出るんとちゃう?もう一度よう振ってみたら。」

 子、もう一度容器をさかさまにして力いっぱい振るが、コショウの出が悪い。容器の中を眺めながら、

 子「湿ってへんけど、粒が大きいて孔にひっかかって出てけえへんみたい。どないしょう?孔、くぎでたたいて大きいしょうか?」
 母「アホやなこと言わんとき。そんなことしたら、入れもんが不細工になるでしょうが。粒の小さいコショウが棚にあるから、それと入れ替え。」

 子、棚をのぞきながら、

 子「あらへんよ。粗引きコショウの詰め替えしかあらへんわ。」
 母「そしたら、コショウをすり鉢でちょっとつぶしたらええやんか。」
 子「おかあちゃん、すりこ木見あたらへんで。」
 母「すりこ木がなかったら、スプーンでつぶしたらええでしょうが。せやけど、キーキー嫌な音するから、静かにやってよ。」
 子「うん、分かった。」

(シーン2)
 子「おかあちゃん、コショウ出ぇへんで。どないしょ?」
 母「そんなこと自分で考えたら。」

 子、もう一度容器を強く振ってみるがやはり出ない。

 子「やっぱり、出ぇへんわ。」
 母「もう、うるさいな。コショウかけな食べられへんねやったら、食べへんだらええでしょうが。お母さんも忙しいの。出てけえへんだら、蓋とってかけたらええやないの。」

 子、だまって蓋を取りはじめる。

 母「蓋とって、そのままかけたら出すぎて辛いよ。手のひらにちょっととってからかけるんよ。」
 子「ふん、分かった。」
 母「あんた、手汚いやんか。外から帰ってきて手洗てへんでしょう。自分で食べるんやからかまへんけど、そんな汚い手にのせたコショウ、入れもんに戻さんといてや。他の人がお腹こわしたら困るからね。」
 子「私やったらお腹こわしてもかまへんいうこと?」
 母「当たり前やないの。汚い手で食べるんはあんたの勝手やからね。せやけど、私はいややで。他人には迷惑かけんといてよ。」
 子「なんちゅう親や。今度からもうちょっとコショウきかせてや。」とぶつぶつと、しかし、主張ははっきり聞こえるよう言いながら手を洗いに行く。

 これは今でも親子の間、特に、関西弁をつかう母と子の間で交わされる会話の典型的なものです。この会話には、前回書いた問題解決のための方法がすべて含まれています。問題解決の方法の提示以外にも、解決方法の中には実行できないものがあること(容器の蓋の孔を大きくすると、容器のみばが悪くなる)や、新たに出てきた課題の解決方法、つまり解決手段として十分な手段がないときはその代替物を探す(すりこ木のかわりにスプーンを使う)、自立しないと生きてはいけない(少なくともお腹をこわすかもしれない)という教え、すぐに反論せず適当なタイミングで自分の主張は必ずする(今度からもうちょっとコショウきかせてや)など自立の勧めや応用力(ソーシャル・スキル)の教えが含まれています。

 こんな場面は日常生活ではいくらでもありましたし、今もあります。これが問題解決のための日本の伝統的な授業といえます。学校で教えるのが悪いとは思いませんが、わざわざ学校でやるようなものでもないのではという気もします。まあ、学校でやる問題解決の授業は、オフ・ザ・ジョブ・トレーニングのようなもので、親子が毎日繰り広げるさまざまな会話や言葉のやり取りは、オン・ザ・ジョブ・トレーニングと言えます。

 問題解決やソーシャル・スキルを教えているアメリカの学校でも、父兄に配る手紙には、「学校での授業だけでは不十分です。家庭で親/両親が子供と色々な会話をし、一緒に考えていくようにするのが一番良い方法です。実行してくださることを強く願っています」といった趣旨のことが必ず書かれています。

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