Saturday, November 3, 2007

マカ族居留地訪問(2)

 マカ族の居留地について書こうとしていて、「マカ族居留地訪問」を10月15日に書いた後、日本へ出張してしまいました。そのため、記事上ではマカ族居留地にたどり着けず、肝心のマカのことをかけないで終わっていましたので、その続きを書くことにします。

 話は少し変わりますが、ネイティブ・アメリカンというのはアメリカ合衆国との関係では、少し特殊な位置にあります。例えば、日系アメリカ人というのは日本人の血を引いているにしても、法的にはアメリカ市民、つまりアメリカという国家の国民です。別の言い方をすれば、日系アメリカ人にとっては、アメリカが自分の国です。でも、ネイティブ・アメリカンは違います。彼らは北米大陸(カナダ、アメリカという国がある場所)に住む独立国家の国民です。ですから、彼らは国家間の契約である条約をアメリカ合衆国と結んでいます。ただ、この条約は、いわゆる「不平等条約」で、互いに独立した国家としての契約を結んでいるわけではなく、一方にとってかなり不利な契約になっています。でも、大切なのは条約に基づいて、アメリカ合衆国におけるネイティブ・アメリカンが位置づけられているということです。もちろん、正確な意味で、ネイティブ・アメリカンが国家の体をなしているわけではなく、彼らの暮らしのかなりの部分をアメリカ合衆国に依存しています。つまり、アメリカに「養ってもらっている」わけで、江戸時代に捨扶持をあてがわれて生活していた肩身の狭い旗本の次男、三男あたりと同じです(国家と意識するなら、もっと惨めかも知れませんが。)この国家としてのプライドと「養われている」という実態とのせめぎあいがネイティブ・アメリカンの意識下にあります。

 冒頭に掲げた写真はマカ族居留地に入った事を示す道路標識です。これはアメリカ政府の予算で道路管理を委託されているワシントン州政府が設置したのです。ですから、表示は、アメリカの立場を反映して、"Makah Indian Reservation"となっています。これより少し手前には、マカ族が設置した、"Welcome to Makah Nation"という歓迎板が掲げられています(この日は逆光でうまく写真を取れませんでした)。

 マカ族居留地は、121,451平方キロ、兵庫県が8,394平方キロ 、隣の京都府が4,613平方キロですから、この二つの地域を合わせたくらいの広さがあります。兵庫県と京都府の人口をあわせると2006年の時点で約70万人。マカ族居留地の人口は、2000年の調査では、なんとたったの1,356人!!私が以前暮らしていた阪急新伊丹駅近くの梅ノ木(1丁目から6丁目まであるが、5分歩けば通り過ぎてしまう)だけでも2,460人も住んでいるのに(伊丹市全体の人口は19万人)。こんなに希薄な人口密度の地域は日本にはありません。ちなみにマカ族として登録している人の数は全米で約1,600人ですから、その大半がこの居留地で暮らしていることになります。

 このマカ族が日本でも結構有名なのは、全米でも唯一捕鯨の権利を有しているネイティブ・アメリカンだからです。日本人と同じように彼らには捕鯨の習慣があり、1,500年以上の歴史を持っています(上の写真は、マカ族の捕鯨の様子。マカ族のホームページからとりました。)この権利は、彼らが1855年にアメリカ合衆国との間で条約を取り交わした時、当時はオリンピック半島の大半にまたがっていた広大な彼らの土地をアメリカに譲るのと引き換えに保全した漁業権のひとつてす。ただし、彼らは近くにやって来るGray Whale(コククジラ)しか捕りません。彼らの食習慣は日本人とほとんど同じです。サーモンにしても、アメリカ人がフィレにして、三枚におろした身の部分をステーキなどにしてしか食べない(食べることができない)のにくらべ、マカ族(他のノースウェストのネイティブ・アメリカンも同じですが)は、頭から尻尾まですべてを無駄にしないで食べます。日本人がサーモンの「かま」を珍重したり、頭や背骨なども色々な料理に使うように、彼らも「かま」の美味しさを知っていますし、頭の身の部分をほじくって食べるのも同じです。ましてや、釣ったサーモンの卵(イクラ)を捨ててしまうアメリカ人とは違って、彼らもイクラを好みます。

 これは鯨についても同じです。江戸末期に日本に黒船とともにやってきたペリー達の目的のひとつに、南氷洋での捕鯨船活動の補給地として日本を利用することがその開港要求の裏にありました。当時、東部のアメリカ人にとって捕鯨は鯨油を得るためだけの活動でした。大きな鯨から油を搾り取った後は、すべて捨てていたわけです。もったいない話です(アメリカ人が捕鯨を止めたのは、石油が発見されて安い灯油が開発されたから。鯨油のコストが高く採算があわなくなったためで、自然保護の観点からではさらさらありません)。バイソン(バッファーロー)を絶滅させたのもアメリカ人。にもかかわらず、彼らに「鯨を捕るな」などといわれるのは日本人として、誠に片腹痛い話ですし、マカ族にとっても同じでしょう。

 話が横道にそれました。マカ族にとっても、鯨は捨てるところがない資源だということが言いたかったのです。現在、彼らは5年間に20頭の鯨を捕る権利を有しています。国際的にも捕鯨が批判されているために、毎年せっせと捕れないのが気の毒ですが。

 鯨やイルカは知能が高い動物だから捕ってはいけない、というのが主な主張です。では、知能が低い阿呆な動物(と一部の人間が信じているだけだが)は良いのかという議論になります。だいたい、これは賢いから大事にすべきだが、これは賢くないからとって食べても構わないなんて、なんと傲慢な考えでしょうか。アメリカ人らしい考えです(そして日本人の中にもこのように考える人々が増えていることは悲しいことですし、危険なことです)。現在では、サボテンだって水をやったら喜んだり、クラシックを聞かせたら成長が良いという研究結果もあるくらいです。植物だって、あるいは藻や酵母菌だって生命のひとつです。人間というのはどのような形であれ、他の生命の犠牲の上にしか自分の命をつむぐことが出来ません。それが嫌なら、餓死する以外にないのです。だからこそ、昔の日本人もネイティブ・アメリカンも自分たちが必要とする以上のものを捕らず、捕ったものはすべてを大切に利用しました。そして、それらの日々の糧を自然の恵みとして神々に感謝し、犠牲となった動物や植物に対しても慰霊を行ってきたのです。
 マカ族の話を書くつもりだったのですが....また、続編を書きます。


 


 

Wednesday, October 31, 2007

今夜はハロウィーン

 9月に学校が始まると、スーパーやパーティ専門店などではこの日のために、早々とハロウィーン・グッズの販売を始めます。













 ハロウィーン・グッズのすべてを写真でお見せできないのが残念ですが、プラスチック製ジャックランタンはもちろんのこと、飾りのための墓石(プラスチック製)、骸骨、くもの巣、お化け、蝙蝠、仮装の衣装、お菓子を入れてもらうバッグ、そして子供達に配るハロウィーンシーズン特製のお菓子などさまざまなものが売り出されます。そして、ハロウィーン商戦の約1ヶ月後がハロウィーン本番。



 今日、10月31日がその日です。 わが家も飾り付けを終え、子供達に渡すお菓子の用意もできました。準備万端です。
 ハロウィーンの日には、どこの家に行っても、喜んで迎えてくれてお菓子をもらえるわけではありません。子供達がワイワイとやってくるのが嫌な人もいます。行っていい家と行ってはいけない家を見分ける暗黙のルールがあります。ハロウィーンの飾り付けをしている家やオレンジ色の電飾やジャクランタンを置いている家なら大丈夫。それ以外は行ってはいけないことになっています。もともとはジャクランタンがあれば、来てもいいよ、というサインでしたが、最近では、オレンジ色の電飾だけでも大丈夫なようです。子供達に来てもらいたくない家は、何の飾りもせずに、ただ、じっと息を潜めて家にこもっていますから、こんな家に行ってはいけないんです。
 それと毎年たくさんお菓子をくれたり、鉛筆やおもちゃもくれる家がありますから、この辺りの口コミ情報を友達同士でおしゃべりするのも子供達にとっては楽しいハロウィーンの準備のひとつです。  「トゥリック・オァ・トゥリート!」と言いながら子供達が回り始めるのは、この辺りでは日が暮れだす午後6時頃からです。まず、最初は小さな子供達が親に連れられながら、さまざまな衣装を来てやってきました。時間が経つにしたがって、小学生高学年の子たちがやってきます。兄弟姉妹もあれば友達同士でもやってきますが、必ず大人と一緒です。5人くらいの友達同士でやってくるときなども、誰かの親が必ずついていて、「あれ、子供達だけかな?」と思って外を見ると、ちゃんと車に大人が乗っています。 

 ピンポン、とチャイムの音。
 「トゥリック・オァ・トゥリート」
 「ハッピー・ハロウィーン、はい、お菓子をどうぞ。」

 7時ごろともなると中学生から高校生達がやってきます。この歳の子達になると友達同士だけで親の付き添いがなくなります。自立心と自尊心が備わってきて、「親なんかに一緒に来てほしないわ」というわけです。アメリカも日本も同じです。そのかわり、緊急時の携帯電話着用が親達が子供に課す暗黙のルール。グループの誰かが自分の携帯や親の携帯を借りてもってきます。この辺りは大変治安が良くて、危険などないのですが、人間一寸先は闇。外も闇。子供達に万が一のことがないようにとの親達の配慮です。

 そして大学生がその後の時間帯になると混じりだし、だいたい9時を過ぎるとトゥリックォァトゥリーティング(ハロウィーンの日に「家々を回ること」を意味します。「トゥリック・オァ・トゥリート」はお菓子をもらいに回る事を意味する動詞としても使われます)は終わります。




後は、近所の飾り付けを見に行って楽しいハロウィーンの夜は更けていきました。








 

Tuesday, October 30, 2007

「世界一やさしい問題解決の授業」のニュース(続き)

 前回のブログで、日本には日本の問題解決の授業方法があり、かつてそれは世間の常識だったと思わず書いてしましました。それについての続編です。

(シーン1)
 子「おかあちゃん、コショウ出ぇへんわ。」
 母「なんでよ?湿ってるん?」

 子、トントンとコショウの容器をたたいて中の様子を見る。

 子「いや、湿ってないよ。」
 母「そしたら出るんとちゃう?もう一度よう振ってみたら。」

 子、もう一度容器をさかさまにして力いっぱい振るが、コショウの出が悪い。容器の中を眺めながら、

 子「湿ってへんけど、粒が大きいて孔にひっかかって出てけえへんみたい。どないしょう?孔、くぎでたたいて大きいしょうか?」
 母「アホやなこと言わんとき。そんなことしたら、入れもんが不細工になるでしょうが。粒の小さいコショウが棚にあるから、それと入れ替え。」

 子、棚をのぞきながら、

 子「あらへんよ。粗引きコショウの詰め替えしかあらへんわ。」
 母「そしたら、コショウをすり鉢でちょっとつぶしたらええやんか。」
 子「おかあちゃん、すりこ木見あたらへんで。」
 母「すりこ木がなかったら、スプーンでつぶしたらええでしょうが。せやけど、キーキー嫌な音するから、静かにやってよ。」
 子「うん、分かった。」

(シーン2)
 子「おかあちゃん、コショウ出ぇへんで。どないしょ?」
 母「そんなこと自分で考えたら。」

 子、もう一度容器を強く振ってみるがやはり出ない。

 子「やっぱり、出ぇへんわ。」
 母「もう、うるさいな。コショウかけな食べられへんねやったら、食べへんだらええでしょうが。お母さんも忙しいの。出てけえへんだら、蓋とってかけたらええやないの。」

 子、だまって蓋を取りはじめる。

 母「蓋とって、そのままかけたら出すぎて辛いよ。手のひらにちょっととってからかけるんよ。」
 子「ふん、分かった。」
 母「あんた、手汚いやんか。外から帰ってきて手洗てへんでしょう。自分で食べるんやからかまへんけど、そんな汚い手にのせたコショウ、入れもんに戻さんといてや。他の人がお腹こわしたら困るからね。」
 子「私やったらお腹こわしてもかまへんいうこと?」
 母「当たり前やないの。汚い手で食べるんはあんたの勝手やからね。せやけど、私はいややで。他人には迷惑かけんといてよ。」
 子「なんちゅう親や。今度からもうちょっとコショウきかせてや。」とぶつぶつと、しかし、主張ははっきり聞こえるよう言いながら手を洗いに行く。

 これは今でも親子の間、特に、関西弁をつかう母と子の間で交わされる会話の典型的なものです。この会話には、前回書いた問題解決のための方法がすべて含まれています。問題解決の方法の提示以外にも、解決方法の中には実行できないものがあること(容器の蓋の孔を大きくすると、容器のみばが悪くなる)や、新たに出てきた課題の解決方法、つまり解決手段として十分な手段がないときはその代替物を探す(すりこ木のかわりにスプーンを使う)、自立しないと生きてはいけない(少なくともお腹をこわすかもしれない)という教え、すぐに反論せず適当なタイミングで自分の主張は必ずする(今度からもうちょっとコショウきかせてや)など自立の勧めや応用力(ソーシャル・スキル)の教えが含まれています。

 こんな場面は日常生活ではいくらでもありましたし、今もあります。これが問題解決のための日本の伝統的な授業といえます。学校で教えるのが悪いとは思いませんが、わざわざ学校でやるようなものでもないのではという気もします。まあ、学校でやる問題解決の授業は、オフ・ザ・ジョブ・トレーニングのようなもので、親子が毎日繰り広げるさまざまな会話や言葉のやり取りは、オン・ザ・ジョブ・トレーニングと言えます。

 問題解決やソーシャル・スキルを教えているアメリカの学校でも、父兄に配る手紙には、「学校での授業だけでは不十分です。家庭で親/両親が子供と色々な会話をし、一緒に考えていくようにするのが一番良い方法です。実行してくださることを強く願っています」といった趣旨のことが必ず書かれています。

「世界一やさしい問題解決の授業」のニュース

 今朝、AZNというフジテレビ系日本語報道番組で、「世界一やさしい問題解決の授業」(渡辺健介著、ダイヤモンド社刊)が30万部売れているというニュースがありました。

世界一やさしい問題解決の授業
渡辺健介著
ダイヤモンド社刊(2007年6月28日出版)
¥1,260(税込み)
ISBN:9784478000496 (4478000492)
 
この番組では、ラーメン屋でお客が容器の穴が小さくコショウがうまく出ないといって文句を言っている場面のイラストが映り、解決方法にはどのようなものがあるかをスタジオで考えるというものでした。(学校や職場で実際に渡辺氏が指導している映像やこの方法を活用している場面がそれに続いて流れていました。)

 いくつかの解答がスタジオ出演者から示された後に、具体的な解答例が提供されました。それによると、まず問題点をいくつかの要素に分解して、それぞれの解決法を見つけていく方法がとられていました。まず容器についてみると解決方法は孔を大きくする。孔の数を増やすことが考えられる。また、入っているコショウに焦点を当てると、解決方法は容器の孔にあわせ、コショウの粒を小さく砕くなどがその解答でした。

 このような考え方はアメリカでは小学校の3年生くらいから教えています。問題をいくつかの要素に分解し、それをノートに表として書き、それぞれの解決方法を記入していく。宿題に出され、授業でもみんなで考えるといったものです。私がこのような方法に接したのは、アメリカの大学院に留学した時が初めてでした。(学生は問題解決の方法といった類の分厚い本をいくつか読まされ、その考え方と手法を教授が説明していました。)その時は、「アメリカでは大学院生にもなってこんなことを教わらなければ分からないのか。アメリカの製造業が駄目になってきたのもうなづける」と感じたものでした。(当時はアメリカの自動車産業が日本のメーカーに追い上げられ衰退を余儀なくされていて、デトロイトなどでは日本車をハンマーで叩き壊すキャンペーンがある一方で、日本のQC運動などに学べという議論が盛んだったのを覚えています。)

 アメリカ式思考方法や方法論を述べた本が日本で30万部も売れるというのは正直言って驚きです。アメリカ教育における常識的な内容が、日本では教えられていないということが驚きの理由ではありません。以前は日本では常識だったことが、いまや日本では学校や職場で学びなおさなければならなくなっているのが驚きなのです。かつて日本はこのような問題解決のための思考方法や手法を十分に持っていて、上述したQC運動や、今なおアメリカで読まれている「現場改善」や「看板方式」を生み出したのに、今、その根底が失われようとしているということでしょうか。

 一昔前には常識だったことが、なぜ、今、と考えてみると、その常識がこの四半世紀の間に育った人々には家庭でも学校でも職場でも伝えられていなかったことを意味しています。著者の年齢は31歳。彼がハーバードのビジネススクールで学び、マッキンゼーに勤務していた間に新鮮に映ったこの手法を書物にまとめ、人々の間に共感を呼んでいるということはこの年代の人々を中心に、今までの日本の教育で失ってきたものがあると云うことです。

 何が失われてきたかはひとまず置くとして、「問題解決の授業」が改めて人々の関心を呼んでいることの問題点は、その先にあります。(この現象は、日本社会の「マニュアル化」を示しているように思えるけれど、この件も今日は触れません。)それは応用力の問題です。今、日本社会に求められているのは、応用力なのです。もちろん問題解決の手法が身についてなければ、応用力が発揮されることはないけれど、問題解決だけが身についていても、応用力がなければそれを実行し、現実の解決をもたらすことが出来ません。応用力というのは、判断力であり、実行力であり、交渉力です。

 さっきのコショウの例で言えば、ラーメンをすするカウンターのお客からクレームが出た場合、その場で取れる問題解決の方法(応用可能な方法)は、考えられた限りの解決法から選択するなら、コショウの粒を小さくすることくらいです。

 コショウの粒を小さくしなくても、目打ちか何かで、孔をその場で大きくすることも出来るだろうけれど、あまりスマートな方法ではありません。

 あるいは、女将さんが、「お客さん、どうもすみませんねぇ。ちょっと、かしてくださいな。」といって品を作りながら客の横に行って、コショウの容器をおもむろに手に取り、蓋をはずしてきれいな手のひらにコショウをとって、「これくらいでよろしいですか?」と言いながら、ほっそりとした白い指でパラパラとお客のラーメンに振りかける。そして客の目を見てにっこり笑う(と最高かも)。この方法は、女将さんの容姿に大きく依存します。お客が「ゲェッ」と思うような太目の指の持ち主などは、この方法をとるべきではないでしょう。ラーメン屋の主人が同じ事をやっては気色悪い!です。いくら絶世の美女で、白魚のような指の持ち主でも、洗い場からエプロンで手を拭きながら出てくるところを客に見られてはいけない、など「べからず集」は色々ありますが。

 町のすべてのラーメン屋にこんな条件を満たした女将さんがいることはないし、いてもラーメン屋でクラブまがいの接客をする必要もありません。だから、順当な方法は、「あ、お客さん、すみません。ちょっと待ってください」といって、厨房の隅で、コショウをすり鉢に入れて、ゴリゴリとやり、粒を小さくして容器に戻し、確実に出るかを確認してから、「どうも、お待たせしましたといって出すといったあたりになります。

 え、すり鉢がなかったらどうするか、ですか。その場合は、「お客さん、うちのラーメンは味が勝負なんだ。コショウなんか振りかけて食べてもらいたかないねぇや。」(関西弁だと、「お客さん、うちのラーメンは味が勝負でっせ。コショウなんかかけて食べんといてもらえまっか」と居直るほかありません。まあ、その客が怒って二度と来なくなってもいいという戦略的判断に基づいてのことではありますが。

 アメリカの小学校では、判断力、実行力、交渉力を含んだ応用力を「ソーシャル・スキル」という形で低学年から教えています。そのうち、日本でも、「問題解決の授業」と平行して、「応用力の授業」(ソーシャル・スキル)も必要になるのでは?
 せやけど、なんでもアメリカの真似なんかしてたらアホになるで、日本には日本の方法があるやろが!というのが素直な気持ちです。

 あー、美味しいラーメンが食べたいなぁ!!

Monday, October 15, 2007

マカ族居留地訪問


 9月24日にブログを書いてから、あっという間に時間が経ってしまいました。ここの処、色々なことが重なり、もう目が回るほどの忙しさでした。そのあたりの事情はおいおいにお話していきます。

 9月28日にマカ族居留地(地名で言えば、Neah Bay)に、木材や農水産物を活用したマカ族の経済開発に関する相談に行ったときの話です。話というよりは、写真を中心に、シアトルに住んでいる人でもめったに行かないマカ族居留地の風景をご案内します。(マカ族居留地については、「シアトル便り」のU子さんが、「アメリカ最西端のネイティブアメリカン“マカ族”を訪ねて」を書いておられます。)


 Neah Bayはワシントン州(アラスカを除くアメリカ合衆国)で最も北西部に位置しています。北はカナダとの国境になっているファン・ド・フカ海峡に、西は太平洋に面しています。ここに行くには、シアトルからならフェリーでベンブリッジ・アイランド経由でオリンピック半島に渡り、そこから北上してポート・エンジェルスまで行き、後は山道をひたすら西に走ります。この日は、単独ドライブでしたから、私が住んでいるオリンピアからR101(ルート101)でピュージェット湾の西沿いにポート・エンジェルスまで北上しました。オリンピアからマカ族居留地までは185マイル(約300キロ)です。写真はポート・エンジェルスを出て、山道にかかる前の田舎道です。

 Neah Bayに至るまでに、シーキューというリゾート地があります。オートキャンプ場や長期滞在型の施設があり、ヨットハーバーがあります。
 ヨットハーバーのはるか向こう、雲の下に見えるのはカナダ領のバンクーバー島です。この日はすばらしい晴天でした。シーキューを過ぎると後は海岸沿いの山道をひたすら走ることになります。樹木の切れ目からは紺碧の海と空、そしてバンクーバー島を見はるかすことが出来ます。
 日本の海岸線、特に日本海と比べてこの辺りには奇岩が余りありません。でも、地元では”Sail and Seal"(帆とアザラシ)と呼ぶ二つの岩があります。写真の左が”Sail"、そして右が”Seal"です。アザラシに見えない!そうなんです。もともとはこの岩の左側にアザラシの頭の部分があったのですが、崩落して今は胴体部分の半分しか残っていないんです。それでも名前は、やはり、”Seal"。
 オリンピアを出て、オリンピック・ナショナル・パークの東側の山裾を101号線に沿って北に走っている間は、濃霧でしたが、セクイムにつくあたりから青空が見え出しました。ポート・エンジェルスを過ぎて、Neah Bayまでの一本道になる112号線に入った頃には、ぬけるような青空が空いっぱいに広がりました。樹木を通して見えるファン・ド・フカ海峡は紺から碧に変化する水面に青と銀の混じったさざなみを立て、樹木はきらきらと緑に輝いていました。どこまでも透明に光る水と空と木々に囲まれていると、云いようもない孤独を感じます。この孤独は、見渡す限り荒涼とした砂漠の中で、満点の星を眺めながら感じる孤独とは異質なものです。砂漠では、小さな人間を押しつぶそうと挑みかかる荒々しい大自然に対して、唯ひとりで立ち向かう寂しさを感じます。でも、ノースウェスト(アメリカ北西部)のひかり輝き、透きとおるような優しい大自然の中では、私という存在が光にとけ込み、いつしか消えてしまうような不安を感じます。砂漠での孤独はともに戦う友を求め、ノースウェストの美しい自然を前にした孤独は傍にたたずむ友を求めるのでしょう。

Monday, September 24, 2007

秋です!


 今朝のオリンピアは冷えました。家の中にいても、「わっ、寒!」と思わず口をついて出てしまうほどです。温度は多分摂氏で5度前後だったと思います。


 毎年だと、この時期になると雨季が始まり、どんよりした曇り空から霧雨が降るのですが、今年は、ラッキーにも晴天が続いています。この調子だともう少し美しい秋空を楽しめそうです。でも、例年より気温が低いせいか、ミツバチが死んで、蜂蜜が取れないと業者の人たちがこぼしていると友人がさっき電話で話していました。とはいうものの、わが家の玄関の軒下には、小型のブラックジャック(スズメバチの一種)が巣をつくり、寒さにも負けず、ブンブン飛んでいます。この蜂に刺されると非常に痛いんです。一昨年は軒下ではなく、地面に巣を作っていました。知らずに近くを通って、何と3回も刺されました。蜂にしてみれば、自分のテリトリーに侵入してきた不審者を攻撃したんでしょうけど、私にしたら、自分の通り道ですから、夜中に巣を掘り返して逆襲してやりました。


 また、軒下の巣をとらなくては。でも、高くてはしごが足らないので思案しているところです。


 今日は、エバーグリーン大学に用があって行きました。この辺りは、ダウンタウンよりも寒いので、紅葉がもう始まっていました。輝く秋が見れるよう、もう少し天気がもってくれるように願っています。



Sunday, September 16, 2007

ニューオリンズの香代子さん

 先日、ニューオリンズに行った際、兵庫クラブのニューオリンズ支部幹事の香代子さんに会いました。(ブログ「ニューオリンズ便り」を書いておられます。)行きはシアトル発シカゴ経由のユナイティッドで行ったのですが、シカゴ空港で乗り継ぎ便が送れ、3時間も空港で待たされました。 ニューオリンズ空港への到着がずいぶん遅くなったのに、香代子さんに空港まで迎えにきてもらい大感激でした。その上、ご自宅に泊めていただきました。ブログで知ってはいましたが、生まれてはじめてプール付きの豪邸というもので休ませてもらいました。
 泊めてもらった部屋には、NFLで活躍されていたご主人(シアトル・ホークスでも2年間プレイしていた。ポジションはディフェンスバックのセイフティ)の写真やヘルメット、香代子さんのブロードウェイ時代のポスターや衣装が飾ってあり、「えー、すごい人の家に泊めてもらっているんや!」とまたまた大感激。

 ご主人のトム(Thom)はアメリカ人とドイツ人の間に生まれた白人系2世のお父さんと日系アメリカ人のお母さん(日系3.5世)(彼女のお母さんが2世、お父さんが1世)だから、日系4.5世ということになります。この辺りがアメリカはややこしい! NFL引退後、今は、Tulane大学アメフトチームのディフェンシブ・コーディネーター、つまりディフェンス側コーチの親分です。そして、ハンサム。

 香代子さんは、ブロードウェイでキャツや王様と私など有名ミュージカルで準主役級の役を演じてこられた実力派のミュージカルスターでした。聞くところでは、香代子さん以前にブロードウェイで活躍した日本人は、40年前に「フラワー・ドラム・ソング」に出演したナンシー・梅木さんだけだったそうです。(ナンシー・梅木さんは、本名を梅木美代志といい、日本人ではじめてアカデミー賞助演女優賞をとった人。今年の8月28日にミズーリ州で78歳の生涯を閉じられた。)

 香代子さんの役は白い猫。他の猫たちを従えて踊る姿はとても印象的でした。ブロードウェイミュージカルのスターだったと言うことでも圧倒されるのに、案内していただいた居間には彼女が作った陶芸作品がぎっしり。それも玄人はだしで十分個展ができるじゃないかと思うほどです。作品には絵付けがされているものもあり、それがまたとても素敵です。もちろん香代子さんが描いたもの。聞いてみると墨絵も描かれるとのこと。それで驚いていると、今度は、「私小説を書いていて、この前、第三回読売新聞Woman’s Beat 大賞に応募したら入賞したんです」とおっしゃる。ここまで来ると、「ひぃえ~」という感じです。(作品の「自分を信じて」を読ませていただく時間がなかったのが残念です。)陶芸の方も本格的にされる予定だそうで、作業部屋にしているガレージにはなんと陶芸用の電気釜まで買い込んであるんです。「今のうちに作品を買わせてもらおう。将来、きっと値が上がる」なんてせこい事を考えてしまいました。

 バレリーナ、ブロードウェイ・ミュージカル・スター、陶芸家、墨絵師、小説家、そして優しくて美人!

 さだまさしの「無縁坂」の一節ではないけれど、「運がいいとか、悪いとか、人は時々口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見てそう思う。」

 母は私が幼い頃から、「天は人に二物を与えず」って教えてくれたけど、これって特別な才能も美貌も持たない私への慰めと励ましだったんだなぁ~と実感しました。  でも、すばらしい人に出会えたことを感謝しています。

停電です!

 ブログの下書きをしていたら、突然の停電しました。外は風もなく、穏やかな良い天気なのに。原因不明です。今、家中のローソクをつけたところです。

 近所の様子を見に外に出てみると、私の家があるブロック全体が停電のようで、隣のジェリーが携帯電話で、サウス・ピュージェット・サウンド・エナージー(電力会社)に電話していました。家の中では、次男の(幼稚園)ジャスティンが、「ホテルに行こうよ。テレビ見てたのに、アニメ見られへんようになったやん。ディズニー(チャネル)が見れへん」と言ってました。あ、もちろん英語でです。でも、私にはこう聞こえたんです。関西人ですから。(笑)  アメリカで暮らしてみて、「日本とちゃうなあ」と感じることのひとつに停電があります。毎年1回か2回はあります。普通は嵐や大雨で木が倒れて、電線を切るのが原因ですが、今日は別です。ラクーン(あらいぐま)が木に登って電線を噛み切ったのかもしれません。鹿が木に登るはずもないので。

 オリンピアで暮らし始めて、初に停電になった時は戸惑いました。まず、家に懐中電灯が一本もない。車で懐中電灯やローソクを買いに行こうにも、ガレージは電動式ですから、電気が止まると開け方が分からない。(実際は、フックをはずすと手動で開けることが出来るのですが、その時知らなかったんです。)結局、電気が戻るのを待っていたという経験がありました。その時になってはじめて、何故、アメリカの家庭ではあちこちにローソクが置いてあるかわかった気がします。あれはおしゃれとか装飾とかいった意味の他に、実際的な必要からなんですね。ローソクがなければトイレにも行けませんから。まあ、このような話はオリンピアでだけの「真理」なのかも知れませんが。

 停電で困るのは、ほとんどのものが電気で動くようになっていることです。暖房も電気センサーで動きます(この辺りでは冷房を入れている家庭はあまり見かけません。夏でも涼しいからです。でも、最近は気候の温暖化でクーラーを入れる家もありますが。もちろん、わが家にはありません)わが家のボイラーとレンジはガスですから、電気が止まっても、お湯は出ますし、レンジも使えます。隣もうちと同じで、お湯ぐらいガスで沸かせますし、暖房を入れなければならない程には今日は寒くないですが。暖房もガスですが、電気でコントロールしているので、停電の時はさむ~い部屋で毛布をかぶってふるえることになります。石油ストーブといったものがないし、ガスストーブも日本のように良いのがありませんから、全部のシステムに電気を使っている家庭ではまったく何も使えなくなり、隣のジャスティンがいうようにホテルに避難しなければならなくなります。昨年暮れの嵐による大停電の時がそうでした。1週間も停電したのですから。あの時は、発電機が飛ぶように売れました。私は家の中でキャンプ生活をしてました。まさか、家の中でテントは張りませんでしたが。

 パソコンの電池もなくなって来ました。この辺りで保存しておきます。インターネットアクセスもできませんので、このブログのアップは電気が回復してからになります。

 あ、熱帯魚の水温が下がるかもしれないからお湯を沸かさなければ。ホント、電気は便利ですが、なければ不便なものです。

Tuesday, September 4, 2007

サンフランシスコの風景

 先週、サクラメントで仕事があり、1泊2日で出張しました。サクラメントがカリフォルニア州の州都だというのはご存知ですね。そう、有名なアーノルド・シュワルツネッガー知事がいるところです。えっ、カリフォルニア州の州都はハリウッドだと思ってた?違いますって!ちなみに、ワシントン州の州都は私が住んでいるオリンピア、オレゴン州の州都はセーラムで、ニューヨーク州の州都はオルバーニです。ここの人口は10万人くらいですが、州都の中では大きな方です。

 飛行機の関係で、サクラメントにはその日に着けず、サンフランシスコで宿泊し翌日は朝の6時出発しました。おかげでサンフランシスコ市内をレンタカーで走り回って、ブログ用の写真をパチパチと撮ることができました。観光パンフレットなどに載っているありきたりの風景ですが、ご覧下さい。

サンフランシスコ空港












日本センターです。最近はだんだん活気がなくなってきているとか聞きました。さびしい気がします。














昼といっても午後三時過ぎですから、おやつ代わりの醤油ラーメンです。ホントお腹が減りました。

ビクトリア調のタウンハウス













フィッシャーマンズワーフと有名なシーフードの露店。ここではアサリやカニをボイルしたのを売っている。カニはダンジネス・クラブ。ところで、ダンジネス・クラブというのは、ワシントン州のダンジネス湾で採れることからつけられた名前です。シアトルの方が本場です!!

夕食は霧のゴールデンゲートを北に渡ったところにあるサウサリートの町で食べました。ここは芸術家の町、そして坂出市の姉妹都市です。




夕食に食べたアヒマグロです。
二羽のかもめと一緒に食べました。
パンをあげたんです。
やっとホテルへ着きました。おやすみなさい。

Monday, September 3, 2007

ダンシング・ゴート

 今日はレーバー・デーの休日で、先週末からの三連休最後の日です。夏最後の三連休を毎日ブログ書きに費やしているのはなんとも味気ないと思いつつも、せっせと書いています。

 昨日はちょっと堅い話を書きましたので、今日は午後のひと時をコーヒーでも飲みながらお過ごし下さい。

 オリンピアの隠れた名品の一つに、バドーフ & ブロンソン珈琲焙煎社の珈琲があります。この会社のブランド名は、ダンシング・ゴート(Dancing Goat)と言います。踊る山羊です。

 なぜ、ダンシング・ゴートなのか。それはコーヒーが発見された由来から来ています。

 昔、エチオピアの高原にカルディー(Kaldi)という山羊飼いがいました。ある日、彼の山羊が興奮しているのに気づきました。山羊の興奮は夜になってもおさまりません。彼がその理由を調べてみると、山羊が高原になる赤い木の実を食べたためだということが分かりました。興味を覚えたカルディーが、恐るおそるその赤い実を食べてみると、気分爽快になり、頭もすっきりとする気がしました。そこでカルディーは赤い実を持って修道院に行き、この不思議な話を僧に話しました。僧たちも食べてみると、やはり気分がさわやかになりました。夜も眠気に邪魔されず、修行に励むことができるようになりました。やがて、この修道院は「眠らない修道院」として有名になり、コーヒーが世界中に広がっていったそうです。

 ここで問題です。コーヒーを最初に見つけたのは誰でしょうか。カルディーというのが一般的な答えです。でも、それは人間の勝手な答え。山羊さんが怒るでしょう。「赤い木の実を見つけて、ずっと前から、コーヒーパーティを開いてたんは俺たちやで」と。そうなんです。コーヒーを飲んで楽しく踊る山羊さんに、コーヒー発見の敬意を表して命名したのが、ダンシング・ゴートというブランド名です。

 バドーフ & ブロンソン珈琲焙煎社です。向かって左へ回ってください。

テースティングルームへの案内とテースティングルームがあります。














 テースティングルームへの入口にある踊る山羊のカップル。コーヒー発見の功績を称えたモニュメントといったところでしょうか。 (向かって左が男性、右が女性。)
テースティングルームの内部です。ここではパネルにあるすべてのブランドを試飲することが出来ます。気に入らなければ買わなくても構いません。でも、美味しいからついつい買ってしまいます。お勧めは、独自ブレンドの「ダンシング・ゴート」です。













 ダンシング・ゴートはオリンピアに2軒の店を持っています。これがその内の1軒。ウオーターフロントのファーマーズマーケットの筋向いにあります。もう1軒はダウンタウンにあって、スターバックスと3軒離れた同じブロック内にあります。スターバックスよりもはるかに香もよく、美味しくて、お客も多いです。

お店の内部とカップのデザインです。個人的には左のデザインを気に入っています。

オリンピアにこられた時には是非味わってください。事前に知らせて頂ければ ご案内します。