今朝、AZNというフジテレビ系日本語報道番組で、「世界一やさしい問題解決の授業」(渡辺健介著、ダイヤモンド社刊)が30万部売れているというニュースがありました。
世界一やさしい問題解決の授業
渡辺健介著
ダイヤモンド社刊(2007年6月28日出版)
¥1,260(税込み)
ISBN:9784478000496 (4478000492)
この番組では、ラーメン屋でお客が容器の穴が小さくコショウがうまく出ないといって文句を言っている場面のイラストが映り、解決方法にはどのようなものがあるかをスタジオで考えるというものでした。(学校や職場で実際に渡辺氏が指導している映像やこの方法を活用している場面がそれに続いて流れていました。)
いくつかの解答がスタジオ出演者から示された後に、具体的な解答例が提供されました。それによると、まず問題点をいくつかの要素に分解して、それぞれの解決法を見つけていく方法がとられていました。まず容器についてみると解決方法は孔を大きくする。孔の数を増やすことが考えられる。また、入っているコショウに焦点を当てると、解決方法は容器の孔にあわせ、コショウの粒を小さく砕くなどがその解答でした。
このような考え方はアメリカでは小学校の3年生くらいから教えています。問題をいくつかの要素に分解し、それをノートに表として書き、それぞれの解決方法を記入していく。宿題に出され、授業でもみんなで考えるといったものです。私がこのような方法に接したのは、アメリカの大学院に留学した時が初めてでした。(学生は問題解決の方法といった類の分厚い本をいくつか読まされ、その考え方と手法を教授が説明していました。)その時は、「アメリカでは大学院生にもなってこんなことを教わらなければ分からないのか。アメリカの製造業が駄目になってきたのもうなづける」と感じたものでした。(当時はアメリカの自動車産業が日本のメーカーに追い上げられ衰退を余儀なくされていて、デトロイトなどでは日本車をハンマーで叩き壊すキャンペーンがある一方で、日本のQC運動などに学べという議論が盛んだったのを覚えています。)
アメリカ式思考方法や方法論を述べた本が日本で30万部も売れるというのは正直言って驚きです。アメリカ教育における常識的な内容が、日本では教えられていないということが驚きの理由ではありません。以前は日本では常識だったことが、いまや日本では学校や職場で学びなおさなければならなくなっているのが驚きなのです。かつて日本はこのような問題解決のための思考方法や手法を十分に持っていて、上述したQC運動や、今なおアメリカで読まれている「現場改善」や「看板方式」を生み出したのに、今、その根底が失われようとしているということでしょうか。
一昔前には常識だったことが、なぜ、今、と考えてみると、その常識がこの四半世紀の間に育った人々には家庭でも学校でも職場でも伝えられていなかったことを意味しています。著者の年齢は31歳。彼がハーバードのビジネススクールで学び、マッキンゼーに勤務していた間に新鮮に映ったこの手法を書物にまとめ、人々の間に共感を呼んでいるということはこの年代の人々を中心に、今までの日本の教育で失ってきたものがあると云うことです。
何が失われてきたかはひとまず置くとして、「問題解決の授業」が改めて人々の関心を呼んでいることの問題点は、その先にあります。(この現象は、日本社会の「マニュアル化」を示しているように思えるけれど、この件も今日は触れません。)それは応用力の問題です。今、日本社会に求められているのは、応用力なのです。もちろん問題解決の手法が身についてなければ、応用力が発揮されることはないけれど、問題解決だけが身についていても、応用力がなければそれを実行し、現実の解決をもたらすことが出来ません。応用力というのは、判断力であり、実行力であり、交渉力です。
さっきのコショウの例で言えば、ラーメンをすするカウンターのお客からクレームが出た場合、その場で取れる問題解決の方法(応用可能な方法)は、考えられた限りの解決法から選択するなら、コショウの粒を小さくすることくらいです。
コショウの粒を小さくしなくても、目打ちか何かで、孔をその場で大きくすることも出来るだろうけれど、あまりスマートな方法ではありません。
あるいは、女将さんが、「お客さん、どうもすみませんねぇ。ちょっと、かしてくださいな。」といって品を作りながら客の横に行って、コショウの容器をおもむろに手に取り、蓋をはずしてきれいな手のひらにコショウをとって、「これくらいでよろしいですか?」と言いながら、ほっそりとした白い指でパラパラとお客のラーメンに振りかける。そして客の目を見てにっこり笑う(と最高かも)。この方法は、女将さんの容姿に大きく依存します。お客が「ゲェッ」と思うような太目の指の持ち主などは、この方法をとるべきではないでしょう。ラーメン屋の主人が同じ事をやっては気色悪い!です。いくら絶世の美女で、白魚のような指の持ち主でも、洗い場からエプロンで手を拭きながら出てくるところを客に見られてはいけない、など「べからず集」は色々ありますが。
町のすべてのラーメン屋にこんな条件を満たした女将さんがいることはないし、いてもラーメン屋でクラブまがいの接客をする必要もありません。だから、順当な方法は、「あ、お客さん、すみません。ちょっと待ってください」といって、厨房の隅で、コショウをすり鉢に入れて、ゴリゴリとやり、粒を小さくして容器に戻し、確実に出るかを確認してから、「どうも、お待たせしましたといって出すといったあたりになります。
え、すり鉢がなかったらどうするか、ですか。その場合は、「お客さん、うちのラーメンは味が勝負なんだ。コショウなんか振りかけて食べてもらいたかないねぇや。」(関西弁だと、「お客さん、うちのラーメンは味が勝負でっせ。コショウなんかかけて食べんといてもらえまっか」と居直るほかありません。まあ、その客が怒って二度と来なくなってもいいという戦略的判断に基づいてのことではありますが。
アメリカの小学校では、判断力、実行力、交渉力を含んだ応用力を「ソーシャル・スキル」という形で低学年から教えています。そのうち、日本でも、「問題解決の授業」と平行して、「応用力の授業」(ソーシャル・スキル)も必要になるのでは?
このような考え方はアメリカでは小学校の3年生くらいから教えています。問題をいくつかの要素に分解し、それをノートに表として書き、それぞれの解決方法を記入していく。宿題に出され、授業でもみんなで考えるといったものです。私がこのような方法に接したのは、アメリカの大学院に留学した時が初めてでした。(学生は問題解決の方法といった類の分厚い本をいくつか読まされ、その考え方と手法を教授が説明していました。)その時は、「アメリカでは大学院生にもなってこんなことを教わらなければ分からないのか。アメリカの製造業が駄目になってきたのもうなづける」と感じたものでした。(当時はアメリカの自動車産業が日本のメーカーに追い上げられ衰退を余儀なくされていて、デトロイトなどでは日本車をハンマーで叩き壊すキャンペーンがある一方で、日本のQC運動などに学べという議論が盛んだったのを覚えています。)
アメリカ式思考方法や方法論を述べた本が日本で30万部も売れるというのは正直言って驚きです。アメリカ教育における常識的な内容が、日本では教えられていないということが驚きの理由ではありません。以前は日本では常識だったことが、いまや日本では学校や職場で学びなおさなければならなくなっているのが驚きなのです。かつて日本はこのような問題解決のための思考方法や手法を十分に持っていて、上述したQC運動や、今なおアメリカで読まれている「現場改善」や「看板方式」を生み出したのに、今、その根底が失われようとしているということでしょうか。
一昔前には常識だったことが、なぜ、今、と考えてみると、その常識がこの四半世紀の間に育った人々には家庭でも学校でも職場でも伝えられていなかったことを意味しています。著者の年齢は31歳。彼がハーバードのビジネススクールで学び、マッキンゼーに勤務していた間に新鮮に映ったこの手法を書物にまとめ、人々の間に共感を呼んでいるということはこの年代の人々を中心に、今までの日本の教育で失ってきたものがあると云うことです。
何が失われてきたかはひとまず置くとして、「問題解決の授業」が改めて人々の関心を呼んでいることの問題点は、その先にあります。(この現象は、日本社会の「マニュアル化」を示しているように思えるけれど、この件も今日は触れません。)それは応用力の問題です。今、日本社会に求められているのは、応用力なのです。もちろん問題解決の手法が身についてなければ、応用力が発揮されることはないけれど、問題解決だけが身についていても、応用力がなければそれを実行し、現実の解決をもたらすことが出来ません。応用力というのは、判断力であり、実行力であり、交渉力です。
さっきのコショウの例で言えば、ラーメンをすするカウンターのお客からクレームが出た場合、その場で取れる問題解決の方法(応用可能な方法)は、考えられた限りの解決法から選択するなら、コショウの粒を小さくすることくらいです。
コショウの粒を小さくしなくても、目打ちか何かで、孔をその場で大きくすることも出来るだろうけれど、あまりスマートな方法ではありません。
あるいは、女将さんが、「お客さん、どうもすみませんねぇ。ちょっと、かしてくださいな。」といって品を作りながら客の横に行って、コショウの容器をおもむろに手に取り、蓋をはずしてきれいな手のひらにコショウをとって、「これくらいでよろしいですか?」と言いながら、ほっそりとした白い指でパラパラとお客のラーメンに振りかける。そして客の目を見てにっこり笑う(と最高かも)。この方法は、女将さんの容姿に大きく依存します。お客が「ゲェッ」と思うような太目の指の持ち主などは、この方法をとるべきではないでしょう。ラーメン屋の主人が同じ事をやっては気色悪い!です。いくら絶世の美女で、白魚のような指の持ち主でも、洗い場からエプロンで手を拭きながら出てくるところを客に見られてはいけない、など「べからず集」は色々ありますが。
町のすべてのラーメン屋にこんな条件を満たした女将さんがいることはないし、いてもラーメン屋でクラブまがいの接客をする必要もありません。だから、順当な方法は、「あ、お客さん、すみません。ちょっと待ってください」といって、厨房の隅で、コショウをすり鉢に入れて、ゴリゴリとやり、粒を小さくして容器に戻し、確実に出るかを確認してから、「どうも、お待たせしましたといって出すといったあたりになります。
え、すり鉢がなかったらどうするか、ですか。その場合は、「お客さん、うちのラーメンは味が勝負なんだ。コショウなんか振りかけて食べてもらいたかないねぇや。」(関西弁だと、「お客さん、うちのラーメンは味が勝負でっせ。コショウなんかかけて食べんといてもらえまっか」と居直るほかありません。まあ、その客が怒って二度と来なくなってもいいという戦略的判断に基づいてのことではありますが。
アメリカの小学校では、判断力、実行力、交渉力を含んだ応用力を「ソーシャル・スキル」という形で低学年から教えています。そのうち、日本でも、「問題解決の授業」と平行して、「応用力の授業」(ソーシャル・スキル)も必要になるのでは?
せやけど、なんでもアメリカの真似なんかしてたらアホになるで、日本には日本の方法があるやろが!というのが素直な気持ちです。
あー、美味しいラーメンが食べたいなぁ!!
2 comments:
もー、Ginnさんっ!
サブミナルなんとかみたいに、ちょこちょこラーメンの画像が入ってるから、とってもいい話やのに、コメントは、「あー、ラーメン食べたい」の一言です。
香代子さん、10日ほど日本に行っていて、返ってきたところです。ご無沙汰しました。でも、日本ではラーメン食べれなかったんです。だから、ふと思い出してしまいました。やっぱり、「食べてきたらよかったなぁ!」
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