Sunday, February 10, 2008

ポート・タンゼントへ(その3)―「花園」(蕎麦の店)

 親切なマービンも仲間と昼食に行ったし、そろそろお腹も減ってきたので、オリンピアを出るときから楽しみにしていたラーメンを食べに行きました。シアトルからでも約2時間はかかるポート・タウンゼントに日本人がやっている蕎麦屋があるんです。その上、美味しい!

 あっ、蕎麦屋さんの話をする前に、ポート・タウンゼントの写真をどうぞ。残念ですが、時期的には雨季ですから曇り空で、ヴィクトリア朝時代の建物もなんとなくくすんで見えます。夏場はそれは美しいところですが。














 お昼を食べる前に、同じブロックにある知り合いのブティックをのぞいたら、ご本人がいたのでちょっと立ち話。Mikoさんといって沖縄の出身です。彼女はミーティングで会うことになっているキャサリンさんの義理のシスターです。キャサリンさんの兄さんのスティーブの奥さんです。「明日から日本へ行くのよ。だから、忙しくって。」と言ってました。

 ここが蕎麦屋の「花園」。蕎麦屋といっても、日本蕎麦だけでなく、丼物もありますし、中華ソバ(ラーメン)やチャンポン麺もあります。この店は、Yokoさんという日本人女性がやっているお店です。彼女の苗字が、花園なので、お店の名前も「花園」と言います。ハナゾノ・ヨーコ。何となくアニメキャラの名前のようですが、本名です。写真ではよく分かりませんが、ご本人も目が大きくて美人です。やっぱりアニメキャラになるかも知れません。

 ところでお味の方ですが、先ほども書いたように、これがまた美味しい!。もちろん、お世辞抜きでの話です。観光地といえども、日本人が数人しかいないワシントン州の田舎町で、女性一人で頑張って、日本の本物の味を提供しているヨーコさんにはいつも感心しています。お店を始めた当初は大変だったようですが、いまではひっきりなしにアメリカ人客がやってきて、食べ終わった後、ヨーコさんに声をかけて出て行きます。お馴染みさんなんでしょう。

 本当に日本の女性は強い!これはアメリカのあちらこちらで日本人女性を見かけるたびに感じることです。以前、ロサンジェルスからグランドキャニオンに向かう砂漠の道を走り、途中、ネイティブ・アメリカンの居留地で休憩したとき、そこにも日本人女性が一人住んでいるという話を聞きました。ご主人はもうなくなっていて、80歳をこえた今も一人で暮らしておられるそうです。砂塵が舞う荒涼とした居留地で骨を埋めるつもりで一人暮らすなんてことは、男には出来ないという気がしました。私なら、きっと日本に舞い戻るか、少なくとももっと日本人がいる街に移り住みそうです。

 日本からの留学生や研修生を見てもそうです。大学や高校の短期留学(まあ、数週間ですからアメリカ体験)プログラムや本格的な留学、あるいは色々なインターンシッププログラムでやってくる学生や青年のうち約70%から80%は女性です。そして、優秀で逞しいのも女性たちという感じがします。もちろん、男性にもそんな人がいることはいますが、絶対数からしたら超少数派。そして、このような優秀でタフな女性たちは日本に帰らずに、アメリカで就職したり結婚したりします。そうなると、孫子の代にまで影響を及ぼす日本の「頭脳流出」ということになります。日本では女性が本当の意味で活躍できない、社会的貢献が出来ない。もし、日本社会がそのような状態をいつまでも続けていれば、きっと一世代後には活力のない三流国に成り下がっているに違いないと考えています。

 ポート・タウンゼントを訪問されることがあったら、是非、ヨーコさんの「花園」を訪ねてあげてください。どの品も美味しいですが、特に、醤油ラーメンは日本の味に飢えている人にはお勧めです。チャーシュがやわらかくっていい味をしていますし、麺のシコシコ感がなんとも言えません。私はもちろん醤油ラーメンでした。

Hanazono Asian Needle
225 Taylor Street
Port Townsend, WA98368
(360)385-7622

 もう一つお勧めの店を紹介しておきます。ミッシェルとデービッドがやっている、“Elevated Ice Cream”というお店。もちろん、アイスクリーム屋さん。ここのアイスクリームは手作りで、品数も豊富。とても美味しいです。ラーメンを食べた後のデザートに、私はメープル・ウォルナットを食べました。私の大好物なんです。

http://www.elevatedicecream.com/

 市役所での新市長のミッシェルさんやキャサリンさんとの打合せも無事終了。オリンピアへの帰途につきました。

Thursday, February 7, 2008

ポート・タウンゼントへ(その2)-フォート・ウォーデン

 ポート・タウンゼントのキャサリンさんとのミーティングは午後1時からだったので、少し、寄り道をして、フォート・ウォーデン(Fort Worden)の写真を撮ってきました。ここはその名前が示すとおり、昔はアメリカ陸軍の基地があったところです。

 余談ですが、今でもアメリカでは陸軍の軍事基地をFort ○○と呼んでいます。西部劇時代の"fort"(砦)の名残です。オリンピアの近くには有名なフォート・ルイス(Fort Lewis)があります。ここは太平洋をはさんだアジアや中東対応のための一大軍事拠点です。

 太平洋を越えてやってくる船が、ピュージェット湾沿いにあるシアトル、タコマ、そして一番南に位置する州都オリンピアなどに行くためには、カナダとの国境を形成しているフアン・デ・フカ海峡を東に向けて進み、その後、ポート・タウンゼントの町を右に見ながら進路を南に変え、ピュージェット湾をまっすぐに南下しなければなりません。ですから、ポート・タウンゼントはワシントン州の主要都市やピュージェット湾にあるブレマートン海軍基地、あるいはフォート・ルイス(陸軍基地)などの重要施設を外国の艦船から護るための要害で、そこにフォート・ウォーデンが築かれました。

 1897年に建設がはじまり徐々に施設が充実されながら軍事拠点としての役割を果たしていましたが、太平洋戦争で制空権の確保こそが戦争で勝利するために不可欠のものであることが証明され、1953年に軍事基地としての役割を終えました。1955年には連邦政府からワシントン州政府に移管され、ステート・パークとして市民や観光客の憩いの場として再度活躍することになりました。1982年に公開されたリチャード・ギア主演映画『愛と青春の旅立ち』のロケ地であり、1999年秋に女優の吉永小百合さんによる「原爆の詩」朗読の海外最初の地ともなりました。敷地は172ヘクタールあり、当時の司令官や将校宿舎などがそのまま保存、公開されていて、事前に予約すれば、宿泊することも出来ます。

 (写真:上から順に) 

   中央広場とフアン・デ・フカ海峡、元司令官宿舎、元将校宿舎(二戸一になっています)
   そして、現モグラの家!


 この日は何故か親切な人によく会う日で、建物の写真を撮っていると、この施設を15年間管理しているというマービンさんがやって来て、「中を見るかい。俺が鍵を持ってるから。」と元司令官宿舎だった建物の内部まで連れて行ってくれました(どうも責任者のようでした。)台所で写っているのが彼です。












 





























(写真が台所から始まっているのは、「裏口」からはいったからです。マービンさんの後ろにあるドアが、ラッキーな「裏口」 ! 彼はこの後仲間と昼ごはんに行きました。)

ポート・タウンゼントへ(その1)-ちょっとひと休み

 今日はポートタウンゼントへ出張です。この町は兵庫県市川町の姉妹として、5月に開催される「シャクナゲ祭り」やその頃にやってくる市川町の親善訪問団や日本ツツジ・シャクナゲ協会の人々のスケジュールなどについての打合せのためです。

 朝、8:00にオリンピアの家を出て、US101号線をのんびりと北上し、ディスカバリー・ベイ(Discovery Bay)に到着したのが10:00前でした。ポートタウンゼントに行くには、ここから州道20号線に入ります。いつもは止まらずに行くのですが、今日は時間もあるので、ここで一休みしました。昔使われていた列車をレストラン(というか喫茶店)に改造したお店に入りました。以前はなんだか「廃棄物」のような感じだったのですが、ちょっと前に通った折には小奇麗になっていて、どんな処か気になっていたのです。
 やはりきれいになっていました。以前はコーヒーとアイスクリームだけを売っていたのですが、今では色々な種類のサンドイッチやピザも売り始めたようです。店のおばさんにカフェラテとブルーベリーマフィン(あわせて2ドル71セント)を買いながら「きれいになったね。メニューも増えたし。」というと、「もちろんよ。息子が帰ってきてメニューも増えたの。今では食事も提供しているわ。」と嬉しそうに話していました。メニューを見ると確かにサンドイッチが15種類、ピザが13種類(各12インチと16インチのサイズがある)

 先頭が機関車、最初の車両(緑)が食事をする場所、二番目の車両(黄色)がキッチン(関係者立入り禁止のサインがあって中で、ひげを生やした息子が仕事をしている)、最後の車両(赤と水色)で食事を買うようになっています。真ん中にある黄色の車両はイリノイ州を走っていたもので、機関車も入れて他の車両は全部カナダで走っていたものだそうです。その裏にッピンクのCandy Depoというのがあって、ここでは色々なお菓子を売っています。 お店の人も親切で、私が緑の車両でマフィンをかじっていると、「寒いだろう」といって、電気ヒーターを持ってきてくれました。このブログはヒーターにあたりながら、パソコンを立ち上げて(コンセントから電気も頂いて)書いています。

今気づきました。なんと、ここはインターネットの「フリースポット」になっていて、無線モデムでつながります。54mbps出ています。オリンピアやシアトルのスタバやタリーズなどと同じです。驚きです!今、日本から携帯に電話があって、ブログはここで一休み。ラテを飲みながらお店の人と話してきます。

 このDiscovery Bay Railroad Parkというお店は、前の所有者から買い取ったもので、今年の6月で丸二年になるそうです。先ほどのおばさんがお母さん、そして息子二人と奥さんでやっています。話してくれたのはJasonという兄さんの方。昨年の夏は忙しかったけれど、今年はそれ以上になると言ってました。お母さんは明日からハワイへ休暇で行くそうです。やはり、儲かってるんでしょうね。

 

Saturday, February 2, 2008

春はもうすぐ

 ここに来てオリンピアの気候も例年並になって来ました。例年並ということは、夏場の半年は晴天、冬場の半年は曇と雨という日々に戻ったということですが。でも、もう2月ですから、空一面をおおっている雲の厚さも薄くなり、うすい灰色から乳白色をしています。これが真冬は黒に近い灰色なんですけど。

 明日訪問する友人のお嬢さんに日本のお菓子をお土産に持って行こうとシアトルまで買出しに行ったのですが、途中、ネスクオリー・バレーの榛の木の芽が出はじめたようで、うっすらと緑色を帯びていました。それに先日買ってきた窓際のヒヤシンスも花が咲き始めました。今、私の横でよい香りをただよさせています。ヒヤシンスの花が咲くとオリンピアの春はそこまで来ています。あと1週間から10日もすればクロッカスが咲き始め、それに続いてラッパズイセン(daffodil)が咲きます。そうなるともう春!あらゆる花がいっせいに咲く季節になります。

 明日はワシントン州の東端の街、スポケーンに仕事で出かけるのですが、その途中でCheneyという町によってEastern Washington State Universityでコンピューターサイエンスを教えている友人を訪ねるつもりです。彼の奥さんは中国系のマレーシア人で、料理が大変上手ですから、3時ごろたどり着けば手作りの肉まんが食べれるはずです。この一家は、食品の安全性にも大変気を使っていて、わざわざ麦茶も手作りしてるくらいですから、ここの肉まんは絶対安心です。具には吟味されたオーガニック素材が使われていますし。

 肉まんは楽しみなのですが、そこに至る道中が大変そうです。通常は、シアトルからI-90(アイ・ナインティ)という州際道路(日本の国道)をまっすぐ東に450キロほど行けば着くのですが、現在、この道は、スノクオルミー峠(Snoqualmie Pass)の辺りで雪崩が発生していてエレンズバーグ(Ellensburg)という町まで、ここ5日間通行止めになっています。(地図中央の赤線の部分)。表層雪崩でしょうから、それも春が近い証拠かもしれません。この道は東海岸のボストンまで一本道でつなぐ幹線道路なのですけど、今も不通ですから、エレンズバーグまで迂回路を通らなければなりません。

 この迂回路というのが、日本では考えられない距離の迂回になります。ワシントン州の太平洋側にはカスケード山脈が南北に走っていて、この州の地形を東西に分断しています。この山脈の最高峰が、4千メートルを超えるレニア山です。この山脈を東西に越える峠はそんなにありません。I-90のスノクオルミー峠が通れないと北のスティーブンス峠(Stevens Pass)か南のホワイト峠(White Pass)を越えなければなりません。シアトルを起点考えれば、スティーブンス峠経由では約70マイル(約110キロ)、ホワイトパス経由なら約110マイル(約180キロ)の迂回になります。神戸から静岡に行くのに、米原から敦賀まで迂回して北陸自動車道経由で東名高速に戻り静岡をめざすようなものです。ほんと、アメリカは広いです!

 私はシアトルよりは南のオリンピアにいますから、I-5から州道12号線(地図の緑に塗った道路)を通り、ホワイト峠を抜けてYakima経由でエレンズバーグに出て、I-90にのりスポケーンに行くつもりです。途中、山間を通るローカルな道ですから、面白いブログネタに出会うかもしれません。

Monday, January 28, 2008

雪がよく降ります

 この冬のオリンピアの天候は例年になく異常です。人から聞かれると、「オリンピアは夏は涼しく、冬は毎日雨が降り続くことを除けば、比較的暖かく温度も氷点下に下がることはありません。」と説明しているのに、昨年から今年にかけての冬は、晴天と雪の繰り返しと言った感があります。
 
 昨年末から今年にかけて無茶苦茶忙しく、週末もろくにゆったりした時間を過ごすことが出来ませんでした。その割りには思っていたことの半分ほどしか達成感がなく、別の理由もあって最近は精神的スランプにおちいっていました。心の状態というのは天候に大きく影響されるようで、晴れている時はなんとなく心も明るくなるのですが、曇ったりするともういけません。気持ちも暗くなります。先週の土曜日は朝からオリンピア港近くのバドフォード&ブロンソン・キャフェまでマグカップを買いに出かけたのですが、空は暗く、気温も氷点下でした。そうなると枯れ枝のカラスも道端のカモメも何となく「春待ち」顔に見えます。本当は、「餌待ち」してただけかもしれないんですが。ただ、この時期は閉店していて閑散としたファーマーズマーケットの屋根上の「風見豚」だけはなんとものんびりと冷たい風に吹かれているように見えました。太っているからなんでしょうか。気分転換に車のCDをかけると、さだまさしの「鐘楼流し」が流れてきました。「こらあかん、もっと気が滅入るわ」と次を押すと、今度は「無縁坂」。あわてて次のCDボタンを押して、サラ・ブライトマンにかえました。

 話が横道にそれました。心の異常ではなく、天候の異常です。温暖化現象が叫ばれている一方で、なぜ冬場の気温が低くなるのかは知らないのですが、とにかく今年は雪がよく降ります。昨日の晩から雪になり、今日も雪が積もっています。天気予報ではここ3日間連続で雪が降るそうです。オリンピア(だけでなくシアトルもですが)は普通なら雨は半年間降り続くが、雪はめったに降らないという所ですから、雪には極めて弱い町です。主要な道は市役所が除雪したり、融雪剤をまいたりして確保しますが、それ以外のところは雪が積もったままです。もちろん、そんな道路は地域の住民が除雪するのが雪国なら当たり前なんですが、オリンピア住民はそんな除雪道具も知識も持っていません。車のタイヤもノーマルタイヤですから、アイスバーンになるとスリップするので出かけられません。私は仕事の関係上雪道を越えて出張することが度々あるので、冬になるとスタッドレスタイヤに交換しているので大丈夫。(タイヤ屋さんの話では、「アイススケートリンクの上でもスパイクタイヤと同程度の性能を発揮すると証明されているタイヤ」だそうです。)ですから、ちょっと雪が降ると学校は休みになります。小学校のみか中学・高校まで校区の学校がいっせいに「雪のため休校」です。(大人も仕事を休む人が沢山います。)子供達はうれしいでしょうが、私のような日本人には不思議です。だって、雪といってもせいぜい5センチもあるかないかですし。歩いて行けよ、といいたくなります。でも、すべてが車に頼る社会で、普段から歩いての通勤、通学などをする人は極めて少数派、多分0.0何パーセントといったところでしょうから、車が走れなくなるとすべてがストップします。自家用車もスクールバスも「事故の危険がある」ということで自粛し、学校も休校になるのです。これが雪国だとそれなりの対策があるのですけど。これはシアトルの街も同じです。ただ、今日のシアトルは雲ってはいますが、雪はまだ降っていません。シアトルの北とオリンピアがある南の方では雪が積もるほど降っていても、シアトルでは雪にならない場合が良くあります。地形のせいか都市から排出される熱エネルギーのせいかは分かりませんが、シアトル市内の気温は他地域に比べてたいてい3度くらい高いのが普通です。

 事務所があるシアトルのビルの駐車場も今日はガラガラ。この分だとオリンピアまでの帰り道は渋滞もせずすいすい走れるかもしれません。

Saturday, November 3, 2007

マカ族居留地訪問(2)

 マカ族の居留地について書こうとしていて、「マカ族居留地訪問」を10月15日に書いた後、日本へ出張してしまいました。そのため、記事上ではマカ族居留地にたどり着けず、肝心のマカのことをかけないで終わっていましたので、その続きを書くことにします。

 話は少し変わりますが、ネイティブ・アメリカンというのはアメリカ合衆国との関係では、少し特殊な位置にあります。例えば、日系アメリカ人というのは日本人の血を引いているにしても、法的にはアメリカ市民、つまりアメリカという国家の国民です。別の言い方をすれば、日系アメリカ人にとっては、アメリカが自分の国です。でも、ネイティブ・アメリカンは違います。彼らは北米大陸(カナダ、アメリカという国がある場所)に住む独立国家の国民です。ですから、彼らは国家間の契約である条約をアメリカ合衆国と結んでいます。ただ、この条約は、いわゆる「不平等条約」で、互いに独立した国家としての契約を結んでいるわけではなく、一方にとってかなり不利な契約になっています。でも、大切なのは条約に基づいて、アメリカ合衆国におけるネイティブ・アメリカンが位置づけられているということです。もちろん、正確な意味で、ネイティブ・アメリカンが国家の体をなしているわけではなく、彼らの暮らしのかなりの部分をアメリカ合衆国に依存しています。つまり、アメリカに「養ってもらっている」わけで、江戸時代に捨扶持をあてがわれて生活していた肩身の狭い旗本の次男、三男あたりと同じです(国家と意識するなら、もっと惨めかも知れませんが。)この国家としてのプライドと「養われている」という実態とのせめぎあいがネイティブ・アメリカンの意識下にあります。

 冒頭に掲げた写真はマカ族居留地に入った事を示す道路標識です。これはアメリカ政府の予算で道路管理を委託されているワシントン州政府が設置したのです。ですから、表示は、アメリカの立場を反映して、"Makah Indian Reservation"となっています。これより少し手前には、マカ族が設置した、"Welcome to Makah Nation"という歓迎板が掲げられています(この日は逆光でうまく写真を取れませんでした)。

 マカ族居留地は、121,451平方キロ、兵庫県が8,394平方キロ 、隣の京都府が4,613平方キロですから、この二つの地域を合わせたくらいの広さがあります。兵庫県と京都府の人口をあわせると2006年の時点で約70万人。マカ族居留地の人口は、2000年の調査では、なんとたったの1,356人!!私が以前暮らしていた阪急新伊丹駅近くの梅ノ木(1丁目から6丁目まであるが、5分歩けば通り過ぎてしまう)だけでも2,460人も住んでいるのに(伊丹市全体の人口は19万人)。こんなに希薄な人口密度の地域は日本にはありません。ちなみにマカ族として登録している人の数は全米で約1,600人ですから、その大半がこの居留地で暮らしていることになります。

 このマカ族が日本でも結構有名なのは、全米でも唯一捕鯨の権利を有しているネイティブ・アメリカンだからです。日本人と同じように彼らには捕鯨の習慣があり、1,500年以上の歴史を持っています(上の写真は、マカ族の捕鯨の様子。マカ族のホームページからとりました。)この権利は、彼らが1855年にアメリカ合衆国との間で条約を取り交わした時、当時はオリンピック半島の大半にまたがっていた広大な彼らの土地をアメリカに譲るのと引き換えに保全した漁業権のひとつてす。ただし、彼らは近くにやって来るGray Whale(コククジラ)しか捕りません。彼らの食習慣は日本人とほとんど同じです。サーモンにしても、アメリカ人がフィレにして、三枚におろした身の部分をステーキなどにしてしか食べない(食べることができない)のにくらべ、マカ族(他のノースウェストのネイティブ・アメリカンも同じですが)は、頭から尻尾まですべてを無駄にしないで食べます。日本人がサーモンの「かま」を珍重したり、頭や背骨なども色々な料理に使うように、彼らも「かま」の美味しさを知っていますし、頭の身の部分をほじくって食べるのも同じです。ましてや、釣ったサーモンの卵(イクラ)を捨ててしまうアメリカ人とは違って、彼らもイクラを好みます。

 これは鯨についても同じです。江戸末期に日本に黒船とともにやってきたペリー達の目的のひとつに、南氷洋での捕鯨船活動の補給地として日本を利用することがその開港要求の裏にありました。当時、東部のアメリカ人にとって捕鯨は鯨油を得るためだけの活動でした。大きな鯨から油を搾り取った後は、すべて捨てていたわけです。もったいない話です(アメリカ人が捕鯨を止めたのは、石油が発見されて安い灯油が開発されたから。鯨油のコストが高く採算があわなくなったためで、自然保護の観点からではさらさらありません)。バイソン(バッファーロー)を絶滅させたのもアメリカ人。にもかかわらず、彼らに「鯨を捕るな」などといわれるのは日本人として、誠に片腹痛い話ですし、マカ族にとっても同じでしょう。

 話が横道にそれました。マカ族にとっても、鯨は捨てるところがない資源だということが言いたかったのです。現在、彼らは5年間に20頭の鯨を捕る権利を有しています。国際的にも捕鯨が批判されているために、毎年せっせと捕れないのが気の毒ですが。

 鯨やイルカは知能が高い動物だから捕ってはいけない、というのが主な主張です。では、知能が低い阿呆な動物(と一部の人間が信じているだけだが)は良いのかという議論になります。だいたい、これは賢いから大事にすべきだが、これは賢くないからとって食べても構わないなんて、なんと傲慢な考えでしょうか。アメリカ人らしい考えです(そして日本人の中にもこのように考える人々が増えていることは悲しいことですし、危険なことです)。現在では、サボテンだって水をやったら喜んだり、クラシックを聞かせたら成長が良いという研究結果もあるくらいです。植物だって、あるいは藻や酵母菌だって生命のひとつです。人間というのはどのような形であれ、他の生命の犠牲の上にしか自分の命をつむぐことが出来ません。それが嫌なら、餓死する以外にないのです。だからこそ、昔の日本人もネイティブ・アメリカンも自分たちが必要とする以上のものを捕らず、捕ったものはすべてを大切に利用しました。そして、それらの日々の糧を自然の恵みとして神々に感謝し、犠牲となった動物や植物に対しても慰霊を行ってきたのです。
 マカ族の話を書くつもりだったのですが....また、続編を書きます。


 


 

Wednesday, October 31, 2007

今夜はハロウィーン

 9月に学校が始まると、スーパーやパーティ専門店などではこの日のために、早々とハロウィーン・グッズの販売を始めます。













 ハロウィーン・グッズのすべてを写真でお見せできないのが残念ですが、プラスチック製ジャックランタンはもちろんのこと、飾りのための墓石(プラスチック製)、骸骨、くもの巣、お化け、蝙蝠、仮装の衣装、お菓子を入れてもらうバッグ、そして子供達に配るハロウィーンシーズン特製のお菓子などさまざまなものが売り出されます。そして、ハロウィーン商戦の約1ヶ月後がハロウィーン本番。



 今日、10月31日がその日です。 わが家も飾り付けを終え、子供達に渡すお菓子の用意もできました。準備万端です。
 ハロウィーンの日には、どこの家に行っても、喜んで迎えてくれてお菓子をもらえるわけではありません。子供達がワイワイとやってくるのが嫌な人もいます。行っていい家と行ってはいけない家を見分ける暗黙のルールがあります。ハロウィーンの飾り付けをしている家やオレンジ色の電飾やジャクランタンを置いている家なら大丈夫。それ以外は行ってはいけないことになっています。もともとはジャクランタンがあれば、来てもいいよ、というサインでしたが、最近では、オレンジ色の電飾だけでも大丈夫なようです。子供達に来てもらいたくない家は、何の飾りもせずに、ただ、じっと息を潜めて家にこもっていますから、こんな家に行ってはいけないんです。
 それと毎年たくさんお菓子をくれたり、鉛筆やおもちゃもくれる家がありますから、この辺りの口コミ情報を友達同士でおしゃべりするのも子供達にとっては楽しいハロウィーンの準備のひとつです。  「トゥリック・オァ・トゥリート!」と言いながら子供達が回り始めるのは、この辺りでは日が暮れだす午後6時頃からです。まず、最初は小さな子供達が親に連れられながら、さまざまな衣装を来てやってきました。時間が経つにしたがって、小学生高学年の子たちがやってきます。兄弟姉妹もあれば友達同士でもやってきますが、必ず大人と一緒です。5人くらいの友達同士でやってくるときなども、誰かの親が必ずついていて、「あれ、子供達だけかな?」と思って外を見ると、ちゃんと車に大人が乗っています。 

 ピンポン、とチャイムの音。
 「トゥリック・オァ・トゥリート」
 「ハッピー・ハロウィーン、はい、お菓子をどうぞ。」

 7時ごろともなると中学生から高校生達がやってきます。この歳の子達になると友達同士だけで親の付き添いがなくなります。自立心と自尊心が備わってきて、「親なんかに一緒に来てほしないわ」というわけです。アメリカも日本も同じです。そのかわり、緊急時の携帯電話着用が親達が子供に課す暗黙のルール。グループの誰かが自分の携帯や親の携帯を借りてもってきます。この辺りは大変治安が良くて、危険などないのですが、人間一寸先は闇。外も闇。子供達に万が一のことがないようにとの親達の配慮です。

 そして大学生がその後の時間帯になると混じりだし、だいたい9時を過ぎるとトゥリックォァトゥリーティング(ハロウィーンの日に「家々を回ること」を意味します。「トゥリック・オァ・トゥリート」はお菓子をもらいに回る事を意味する動詞としても使われます)は終わります。




後は、近所の飾り付けを見に行って楽しいハロウィーンの夜は更けていきました。