Saturday, October 25, 2008

アメリカの教育―加点方式―

 最近、北海道の大学生方に話をする機会があり、そのお礼に頂いた色紙に彼らの感想が添えられていてとてもうれしく思いました。そのうちのいくつかは日本とアメリカの教育に関する話にふれた部分でした。
 いつもはノー天気なことを書いているので、今日は、少し堅めに日本とアメリカの教育の違いについて書いてみようと思います(笑)。私は仕事の関係で、日本の留学生やインターンに接する機会が日常的にあります。中学生や高校生たちの1週間ほどの短期語学体験留学から大学や大学院を卒業するまでの長期留学の差はありますが、一般的に言って、どの学生たちも素直で、まじめで、能力と可能性をいっぱい持った人たちです。でも、アメリカの学生たちと比べると、何かが違うという感覚がずっと私につきまとっていて、それが何なのかを考え続けています。(答えは一つでなく、色々な理由の組み合わせであるため、一言ではいえないのですが)

 アメリカはその建国の歴史から言っても、キリスト教(ピューリタニズム)に基づく、キリスト教文化の社会です。そして、キリスト教に基づく人間観というのは、性悪説です。絶対的な神の前にあっては、人間は「塵(ちり)」、「芥(あくた)」にすぎず、無に等しいもの。また、完全無欠な神の前にあって、人間は罪を犯すもの、パウロ的に言えば、人間は根元的に罪を持っており、存在そのものが罪と表現できます。その人間が神=聖霊=イエス・キリストを信じ、悔い改めることにることによって、罪を許されて生きることができると考えられています。

 一方、日本は性善説に基づく人間観が根底に流れていると思います。「渡る世間に鬼はなし」ということわざがあります。「渡る世間は鬼ばかり」というTVドラマがうけたのも、このことわざのパロディとしてであり、日本人がどこかで、「(鬼ばっかり違うけど)やっぱり鬼もいるんやなぁ。えげつないやっちゃ。」と考えているから笑えるわけでしょう。日本には「穢れ」という思想があります。神道にみられるこの考え方が日本人の心理の奥底にまで及んでいます。人間は本来けがれのない美しい魂を持った存在である。しかし、何らかの原因で、穢れがその人につけばその人の魂と存在は汚れたものになる。だから、穢れがつけばお祓いや禊ぎをして、その穢れを取り除けば、人はもとの清らかな存在となる、と考えられています。これは人間が罪の存在であると考えるキリスト教文化とは対極をなすものです。

 ただ、キリスト教にも性善説的な部分があり、日本の思想にも性悪説的なものはありますから、仔細に書いているとブログが終わりません(笑)から、あくまでも相対的にという程度にご理解下さい。性悪説に基づけば、教育は加点主義になります。もともと人間は無、つまり、零(ゼロ)ですから、1つ知れば、1点とったと考えるようになります。ソクラテスの「無知の知」も同じです。「自分が無知なことを知っている。だから、自分はすべてのことを知っている(あるいは一番多く知っている)と思い上がった人間よりも私の方が優れている」と彼は言います。別の言い方をすれば、「人間がすべてのことを知ることはできない。だから、すべてのことを知っているということは間違いだ(あるいは、知っていると言っても五十歩百歩だ)。自分はまだまだ知らないことがある。それを一つひとつ極めていくことが大切なのだ」ということです。生まれたての子供は何も知らない。だから、何かひとつのことを覚えると、肯定的な意味で、その子は成長したことになります。だから、子供は訓練(教育)しなければならない、とも考えるわけですが。

 アメリカの教育はこの加点方式に基づいています。ある問題に対する答えが一部でもあっていれば、1点、5点、あるいは10点加点されます。これは日本でいう試験の部分点という考え方ではありません。部分点というのは、たとえば、その問題の満点が20点であれば、半分はあっているから10点あげるという考え方です。でも、アメリカでは、その問題の「満点が20点」という発想が異なっています。もちろん、アメリカにも試験がありますから、成績は点数で表されます。でも、すべての試験が100満点で何点という考え方ではありません。450点中380点取ったから、パーセントに直せば、84.4パーセントという表現をします。また、オリンピアのある中学校では、「この試験で取れる点数の可能性(possible points)は100」と試験の前に学生に表示されます。この意味は、日本のように全部あっていたら100点、という考えではありません。数学のように数式で、あるいは、リーディング(読解力)やライティング(作文)のように記述式で答える回答方式の違いを問わず、もし、学生が学校で習っている(あるいは先生が期待している)レベル以上の解答をすれば100(点)を越える点数、たとえば、103点とか105点ということもあり得るわけです。このように100を越える点数がつくことがあるのは、一つひとつの問題の解答に対する点数を加点していくからです。
 このような加点方式が一番分かりやすいのは、ドライバーテスト(運転免許試験)です。ワシントン州では筆記試験はコンピューターによるもので、英語、スペイン語、日本語の3種類の言語からどれかを選んで受けることができます。各問題は4択で出され、そのうちの正解をクリックして行く方法で出されます。25問出て、20問(80パーセント)正解(だったと思います)すれば通りますから、すべての問題に答える必要がなく、最初から順に答えていって、解答率が80パーセントに達したらそれで終わりです。終わりというのは、文字通りの終わりで、いくらあとに問題が残っていてもコンピューターはそれ以上問題を出してくれません。やる必要がない、ということです。最初から20問正解すれば、5問残していても、それで終了です。もちろん、20問やってまだ点数が足らなければ、80パーセントに達するまで問題を解くことができます。25問やって80パーセントなければ、当然、「バイバイ、またね」と言うことです。この方式は、加点主義に基づいています。80パーセント必要なのだから、それに達するまで加点していくわけです。100パーセントから点数を引いて、残りが80パーセント以上あるから通してあげる、という考えではないわけです。

 学校の話に戻ると、アメリカの学校では試験だけで成績が決められるわけではないとよく言われます。その通りです。それは加点主義に基づいているからできるわけです。ペーパーテストが全体の何パーセント、そして、クラスでの発言(内容ではなく、発言したか、しなかったかが重要)、グループ学習でどれほどグループに貢献したか(リーダーシップを発揮したか、他の学生を助けたかなど)、宿題(出したら何点、そして正しければ追加で何点と決まっています)、発表会でどのようなプレゼンをしたか、学校にどれほど貢献したか(クラブ活動で頑張ったとか)などがそれぞれ何パーセントと決まっています。だから、アメリカの学生は、つまらないことでも質問し、グループワークではとにかく熱心に参加しようとするのです。こうなると学年の最後の評価で100あるいはそれ以上のポイント(さっきも述べたように、103などもありえる)をとるのは至難の業ということになります。もし、100とれればすべての分野で優れているということになりますから。

 このように書くと、アメリカでは学力があまり重んじられていないように思われるでしょうが、そうではありません。日本が「ゆとり教育」などという馬鹿げた(と私は思っています)制度を実施している間に、アメリカは一生懸命、学生の学力向上に取り組んできました。ワシントン州では、WASL(Washington Assessment of Student Learning)という学生の学力レベルをはかる共通テストがあり、小学4年生から高校3年生までが受けなければなりません。そして、高校3年までに求められているレベルに達していなければ、高校卒業資格を与えられません。学校が下駄をはかせて卒業させてくれるほど甘くはないわけです。アメリカの大学は入り易いが卒業しにくいとよく言われます。でも、自分が希望する大学に行くためには、学校の成績(さっき書いたすべての分野の成績)やWASLの試験結果、そして資力によって決まります。日本で考えられているのとは違って、アメリカでは小学校からずっと子供たちは(そして親も)能力の総合力で競争しているのです。

 日本は性善説に基づいて考える傾向があるので、減点方式になります。すべての人は、みんな正しい人であり、満点を取る能力があると考えがちだからです。100点が取れないのは、その人の勉強や努力が足りないというわけです。穢れがついて、その人の健康や正しい行いが保たれなくなるという発想と同じです(これはこれで良い面もありますが、人間というものを客観的に眺めれば、やはり間違いだといわざるを得ないでしょう)。能力も才能も異なったすべての人が、一律的学力試験において100点とれると仮定して、ひとつ間違えば、何点減点という方式で成績を決める。この考え方が日本の減点方式です。
 もし、この減点方式の考え方のままで、日本の教育現場でも、アメリカのようにいろいろな学生の能力も評価できるような成績制度を取り入れようとすると、これは多分不可能です。なぜかというと、学生のリーダーシップやクラスメートにやさしく接し、クラスへ貢献したなどといった、点数では評価が困難な分野について、何をもって100(あるいは満点)とするかが決定できないからです。むちゃくちゃ足が速く、陸上競技で、学校の名を高めてくれた。では、どの程度の速さなら、あるいは成績なら100点なのかは容易に決められるわけではありません。あるいは、グループ学習でどの程度のリーダーシップが100点なのかも決めることができません。でも、足が速いから特別に何点あげる、とかリーダーシップがあるから何点ね、クラスでみんなに親切にして、クラス全体の雰囲気をよい方向に持って行くのに1年間がんばってくれたから、何点プラスということは出来ます。実際に、そのような表彰制度を各学校が持っています。

 日本の教育制度について長い間議論がなされ、改革も徐々にですが進んでいます。しかし、減点方式による学力至上主義といった考えを、根本的に改めなければ本当の意味での改革は出来ないでしょう。今の日本の学校で、「あいつのパンは旨い」とか「あいつめちゃ歌うまいで」、と誰がほめて、学校で評価してくれるでしょうか。学校の学力成績が良い学生だけが評価され、優越感を持ち(ほとんどの人はそうではないでしょうが)、一流企業や官庁に就職し、そのくせ、旨いパンを求めて食し、TVでお笑いタレントやポップ歌手の番組を楽しむ・・・日本の学校教育における評価システムはなんと不平等なものでしょうか。

 アメリカの教育制度に問題がないわけではありません。しかし、学生一人ひとりの総合力を評価し、高め、それを社会へと送り出していくという点では、優れたものがあるように思います。
冒頭で、「日本の学生は、アメリカの学生と比べて何かが違う」と書きましたが、その違いは、学生たちの積極さや伸びやかさです。日本の学生は優秀です。でも、その学生たちが自分たちの能力を発揮し、発展させていくためには、間違えても良い、何かをすればそれだけでも評価されるのだという肯定的な気持ちを持つ必要があります。そして、学生たちが自由に、伸びやかに、楽しく能力を伸ばしていくためには、学校や社会が学生たちをいままでと違った方式で眺め、評価しなければなりません。授業時間を減らしたり、学力的には劣った学生(でも、他の面では優れた学生)に授業レベルを合わせ(かといって、他の面で評価される機会を与えない)たりすれば解決する問題ではありません。日本社会の総合的競争力が国際的に劣ってきているなら、それは子供たちや学生たちの能力が劣っているわけではなく、学校や社会が彼ら(彼女ら)の能力の芽を摘んでいることに他ならないと感じています。
 写真は、上から順に、
1.ガーフィールド小学校の正面
2.ガーフィールド小学校の運動場と校舎
3.ガーフィールド小学校駐車場の紅葉
4.ジェファーソン中学校の正面
5.ジェファーソン中学校の正門
6.キャピタル高校の正面校舎
7.キャピタル高校の正門

1 comment:

Anonymous said...

子供たちはアメリカで教育を受けました。
私自身の言葉のハンディで、このような細部まで理解していませんでした。
これを読み、なるほどとと納得すると共に
このようなことが分っていたら、わが子にもう少し違った接し方が出来たのではと、反省しております。

非常に分りやすくて私でも理解できました。
ありがとうございます。

さくら