Sunday, February 6, 2011

主体性と創造力

今日の朝日新聞ウェブ版に経団連が会員企業や非会員の地方中堅企業を対象に行ったアンケート調査の結果が出ていました。大学生を採用する際に重視する点は、1~5ポイント評価中、「主体性」が平均4.6ポイントと最多で、それに続いて「コミュニケーション能力」と「実行力」が4.5ポイントでした。

一方、最近の大学生に不足している素質については「主体性」が89.1%と一番多く、能力・知識面での不足では、「創造力」(既存の価値観にとらわれない発想ができる)が69.3%でトップを占めていました。その結果、76.5%の企業が大学に対し「教育方法の改善」を求めている結果が出ています。

私の事務所には日米取り混ぜて沢山の学生がインターン来ます。また、1~2週間と短期ですがさまざまなアメリカ体験プログラムや姉妹都市交流事業でやってくる中学生、高校生、大学生あわせて100人以上の学生に会う機会があります。その人たちを見ていて上のアンケート結果と同じ印象を持っています。でも、考えて見なければならないことは、主体性がない学生が多いということは、大学だけの責任かということです。経団連の設問が「大学に求めること」といったものだったためにこのような答えになったのでしょうが、もし、「日本の教育に求めること」という設問にしてあったら、76.5%かそれ以上の回答が、日本の「教育方法の改善」を求める結果になったと思います。

私の友人の中には、いろいろな大学で教えている教授たちがいますが、どの友人にたずねても、大学に進学してくる学生の「主体性」や「創造力」の無さを指摘し、それらの学生に様々な工夫をして主体性や創造力をつけさせようと努力していると話します。考えてみれば可笑しな話です。大学というのは「最高学府」と呼ばれるように、学問や研究を行い、同時に最終(最高)レベルの教育を行う機関であって、幼児教育を行うところではありません。

本来、主体性や創造力というのは生存のための競争力ですから、他の動物と同じように人間も幼児の頃から持ち合わせています。生れ落ちたばかりの子鹿が自分で立ち上がるのも、木の上の巣で親鳥から餌をもらうのを待っている雛が大きな口をあけて親鳥にアピールするのも主体性や自己主張の表れですし、他に先駆けて餌をもらえるように工夫するのは創造力の基本と見ることができます。

ハイハイをしてようやくつかみ立ちをし始めた幼児の身体を支えて手助けをしようとすると、「Aちゃんが」と叫んで手を払いのけられたことがあります。つまりAちゃんは自分で立つから手を出すなと私に怒ったわけで、これはまさに主体性そのものです。また、幼児が親のボールペンを握って、机の上に何かをゴシゴシと書こうとするのも幼児の創造力の具現化に他なりません。

子供たちが生まれながらにして持っている主体性や創造力をどのように育てていくかは、幼児期から中等教育までの、つまり14歳くらいまででその方向は決まります。この期間に子供たちの主体性や創造力を育んでいくような躾や教育が家庭や学校でなされていなければ、大学生にもなっていまさら主体性だ創造力だといわれても学生たちにとっても迷惑な話です。就職するためには何とかそのような能力を身につけるか能力があるように装う技術を習得する必要がありますが、[私の今までの20数年はいったい何だったのだ!?]という思いが強いことでしょう。

アメリカではプレスクール(保育所)の頃から、子供たちが言ったりしたりしたことに対して、まずはそれを認めるという教育がされます。仮に「けったい」な絵を描いた子に対しても、「それは何?...ふうん、そうなの。上手に書けたね。今度はこんな絵が書ける?」といった具合です。小学校、中学校と進むにつれて、このような教育は輪をかけて行きます。国語(アメリカでは英語)も数学も嫌い、でもマジックやジャグリングなら得意だという子供にはマジックやジャグリングを教えてくれる学校もあります。子供(人間)にはそれぞれの能力に差異と特色がありますから、それを最大限に伸ばす教育がアメリカでは常に試みられています。

このようなことはずっと以前から多くの人がいろいろな本や場所で書いたり言ったりしていることですから、いまさら繰り返す必要はないお思います。にも関わらす、未だにこのようなアンケート結果が出るということは日本の教育システム全体を本気で変更しなければならない時が来ているか、「賞味期限」どころか「消費期限」がとっくに過ぎていて、食べたらお腹を壊すところまで来ているかのどちらかです。

主体性や創造力は、自己主張することですし、慣習や規則に反する主張をすることにもつながります。もっと批判的な見方をすれば「我を張る」ように見えることもありますし、学校や会社、あるいは社会の異端分子に見えることもあります。アメリカの小学生、特に女の子は、高学年に近づけば、マニュキュアをぬったり、フェイクの刺青(シール式のものを使う)をしたり、イヤーピースなどをして学校へ行きます。学校でも特段それをとがめることもありません。こうなると何でもありですから、パジャマ姿で学校に行く子だっています(さすがに毎日パジャマというのはドレスコードに反しますから、その旨を子供に教えてはいます。その代わり、パジャマで行っても良い「パジャマデー」を設けているところもあります)し、アニメキャラの服装で行く子もいます。こんな子供たちを受け入れる学校の素地は残念ながら今の日本にはありません。

主体性を持ち、創造力が豊かな子供が育つためには、子供たちが自由であり、それを周りの人々が許容し、見守り、必要に応じてアドバイス(あくまでもアドバイス。従うかどうかは子供の自由)を与えるような環境が必要です。ただし、アメリカにも、いやアメリカは日本以上に、これ以上は駄目、という明確な基準があります。例えば、「給食費を払っているのだから、なぜ、私の子供が『いただきます』といわないといけないのか」といった類の訳の分からないモンスターペアレントの主張など、「それが学校(公立学校)の方針です。納得できないならどうぞ辞めて他の学校へ行って下さい」と一蹴されます。もっとも、そんな阿呆なことを行ってくる親などいませんが。

人々が賞賛するような発明をしたり、会社に貢献するようなビジネスアイディアを生むものだけが、創造力と呼ばれるものではありません。漫画やアニメを熱心に書く練習をしたり、自分が好むファッションの服を着て歩くのも含めて創造力です。まねることは学ぶことであり、それが新しい創造へとつながります。偉人の生き方をまねるのも、アイドルのファッションをまねるのもともに主体性の表れであり、次の時代へとつながる創造力を秘めています。

(写真)
前回のブログにも掲載しましたが、「お正月・イン・オリンピア」に出展していた在シアトル日本総領事館のブースをのぞくロリータファッションの中学生。「アメリカの女の子が着るとよく似合う」とはインターン(東京工業大学)の感想。左隣のアニメ風の鎧姿はシアトルにある日本国総領事館領事の「変装」。

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