Monday, September 24, 2007

秋です!


 今朝のオリンピアは冷えました。家の中にいても、「わっ、寒!」と思わず口をついて出てしまうほどです。温度は多分摂氏で5度前後だったと思います。


 毎年だと、この時期になると雨季が始まり、どんよりした曇り空から霧雨が降るのですが、今年は、ラッキーにも晴天が続いています。この調子だともう少し美しい秋空を楽しめそうです。でも、例年より気温が低いせいか、ミツバチが死んで、蜂蜜が取れないと業者の人たちがこぼしていると友人がさっき電話で話していました。とはいうものの、わが家の玄関の軒下には、小型のブラックジャック(スズメバチの一種)が巣をつくり、寒さにも負けず、ブンブン飛んでいます。この蜂に刺されると非常に痛いんです。一昨年は軒下ではなく、地面に巣を作っていました。知らずに近くを通って、何と3回も刺されました。蜂にしてみれば、自分のテリトリーに侵入してきた不審者を攻撃したんでしょうけど、私にしたら、自分の通り道ですから、夜中に巣を掘り返して逆襲してやりました。


 また、軒下の巣をとらなくては。でも、高くてはしごが足らないので思案しているところです。


 今日は、エバーグリーン大学に用があって行きました。この辺りは、ダウンタウンよりも寒いので、紅葉がもう始まっていました。輝く秋が見れるよう、もう少し天気がもってくれるように願っています。



Sunday, September 16, 2007

ニューオリンズの香代子さん

 先日、ニューオリンズに行った際、兵庫クラブのニューオリンズ支部幹事の香代子さんに会いました。(ブログ「ニューオリンズ便り」を書いておられます。)行きはシアトル発シカゴ経由のユナイティッドで行ったのですが、シカゴ空港で乗り継ぎ便が送れ、3時間も空港で待たされました。 ニューオリンズ空港への到着がずいぶん遅くなったのに、香代子さんに空港まで迎えにきてもらい大感激でした。その上、ご自宅に泊めていただきました。ブログで知ってはいましたが、生まれてはじめてプール付きの豪邸というもので休ませてもらいました。
 泊めてもらった部屋には、NFLで活躍されていたご主人(シアトル・ホークスでも2年間プレイしていた。ポジションはディフェンスバックのセイフティ)の写真やヘルメット、香代子さんのブロードウェイ時代のポスターや衣装が飾ってあり、「えー、すごい人の家に泊めてもらっているんや!」とまたまた大感激。

 ご主人のトム(Thom)はアメリカ人とドイツ人の間に生まれた白人系2世のお父さんと日系アメリカ人のお母さん(日系3.5世)(彼女のお母さんが2世、お父さんが1世)だから、日系4.5世ということになります。この辺りがアメリカはややこしい! NFL引退後、今は、Tulane大学アメフトチームのディフェンシブ・コーディネーター、つまりディフェンス側コーチの親分です。そして、ハンサム。

 香代子さんは、ブロードウェイでキャツや王様と私など有名ミュージカルで準主役級の役を演じてこられた実力派のミュージカルスターでした。聞くところでは、香代子さん以前にブロードウェイで活躍した日本人は、40年前に「フラワー・ドラム・ソング」に出演したナンシー・梅木さんだけだったそうです。(ナンシー・梅木さんは、本名を梅木美代志といい、日本人ではじめてアカデミー賞助演女優賞をとった人。今年の8月28日にミズーリ州で78歳の生涯を閉じられた。)

 香代子さんの役は白い猫。他の猫たちを従えて踊る姿はとても印象的でした。ブロードウェイミュージカルのスターだったと言うことでも圧倒されるのに、案内していただいた居間には彼女が作った陶芸作品がぎっしり。それも玄人はだしで十分個展ができるじゃないかと思うほどです。作品には絵付けがされているものもあり、それがまたとても素敵です。もちろん香代子さんが描いたもの。聞いてみると墨絵も描かれるとのこと。それで驚いていると、今度は、「私小説を書いていて、この前、第三回読売新聞Woman’s Beat 大賞に応募したら入賞したんです」とおっしゃる。ここまで来ると、「ひぃえ~」という感じです。(作品の「自分を信じて」を読ませていただく時間がなかったのが残念です。)陶芸の方も本格的にされる予定だそうで、作業部屋にしているガレージにはなんと陶芸用の電気釜まで買い込んであるんです。「今のうちに作品を買わせてもらおう。将来、きっと値が上がる」なんてせこい事を考えてしまいました。

 バレリーナ、ブロードウェイ・ミュージカル・スター、陶芸家、墨絵師、小説家、そして優しくて美人!

 さだまさしの「無縁坂」の一節ではないけれど、「運がいいとか、悪いとか、人は時々口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見てそう思う。」

 母は私が幼い頃から、「天は人に二物を与えず」って教えてくれたけど、これって特別な才能も美貌も持たない私への慰めと励ましだったんだなぁ~と実感しました。  でも、すばらしい人に出会えたことを感謝しています。

停電です!

 ブログの下書きをしていたら、突然の停電しました。外は風もなく、穏やかな良い天気なのに。原因不明です。今、家中のローソクをつけたところです。

 近所の様子を見に外に出てみると、私の家があるブロック全体が停電のようで、隣のジェリーが携帯電話で、サウス・ピュージェット・サウンド・エナージー(電力会社)に電話していました。家の中では、次男の(幼稚園)ジャスティンが、「ホテルに行こうよ。テレビ見てたのに、アニメ見られへんようになったやん。ディズニー(チャネル)が見れへん」と言ってました。あ、もちろん英語でです。でも、私にはこう聞こえたんです。関西人ですから。(笑)  アメリカで暮らしてみて、「日本とちゃうなあ」と感じることのひとつに停電があります。毎年1回か2回はあります。普通は嵐や大雨で木が倒れて、電線を切るのが原因ですが、今日は別です。ラクーン(あらいぐま)が木に登って電線を噛み切ったのかもしれません。鹿が木に登るはずもないので。

 オリンピアで暮らし始めて、初に停電になった時は戸惑いました。まず、家に懐中電灯が一本もない。車で懐中電灯やローソクを買いに行こうにも、ガレージは電動式ですから、電気が止まると開け方が分からない。(実際は、フックをはずすと手動で開けることが出来るのですが、その時知らなかったんです。)結局、電気が戻るのを待っていたという経験がありました。その時になってはじめて、何故、アメリカの家庭ではあちこちにローソクが置いてあるかわかった気がします。あれはおしゃれとか装飾とかいった意味の他に、実際的な必要からなんですね。ローソクがなければトイレにも行けませんから。まあ、このような話はオリンピアでだけの「真理」なのかも知れませんが。

 停電で困るのは、ほとんどのものが電気で動くようになっていることです。暖房も電気センサーで動きます(この辺りでは冷房を入れている家庭はあまり見かけません。夏でも涼しいからです。でも、最近は気候の温暖化でクーラーを入れる家もありますが。もちろん、わが家にはありません)わが家のボイラーとレンジはガスですから、電気が止まっても、お湯は出ますし、レンジも使えます。隣もうちと同じで、お湯ぐらいガスで沸かせますし、暖房を入れなければならない程には今日は寒くないですが。暖房もガスですが、電気でコントロールしているので、停電の時はさむ~い部屋で毛布をかぶってふるえることになります。石油ストーブといったものがないし、ガスストーブも日本のように良いのがありませんから、全部のシステムに電気を使っている家庭ではまったく何も使えなくなり、隣のジャスティンがいうようにホテルに避難しなければならなくなります。昨年暮れの嵐による大停電の時がそうでした。1週間も停電したのですから。あの時は、発電機が飛ぶように売れました。私は家の中でキャンプ生活をしてました。まさか、家の中でテントは張りませんでしたが。

 パソコンの電池もなくなって来ました。この辺りで保存しておきます。インターネットアクセスもできませんので、このブログのアップは電気が回復してからになります。

 あ、熱帯魚の水温が下がるかもしれないからお湯を沸かさなければ。ホント、電気は便利ですが、なければ不便なものです。

Tuesday, September 4, 2007

サンフランシスコの風景

 先週、サクラメントで仕事があり、1泊2日で出張しました。サクラメントがカリフォルニア州の州都だというのはご存知ですね。そう、有名なアーノルド・シュワルツネッガー知事がいるところです。えっ、カリフォルニア州の州都はハリウッドだと思ってた?違いますって!ちなみに、ワシントン州の州都は私が住んでいるオリンピア、オレゴン州の州都はセーラムで、ニューヨーク州の州都はオルバーニです。ここの人口は10万人くらいですが、州都の中では大きな方です。

 飛行機の関係で、サクラメントにはその日に着けず、サンフランシスコで宿泊し翌日は朝の6時出発しました。おかげでサンフランシスコ市内をレンタカーで走り回って、ブログ用の写真をパチパチと撮ることができました。観光パンフレットなどに載っているありきたりの風景ですが、ご覧下さい。

サンフランシスコ空港












日本センターです。最近はだんだん活気がなくなってきているとか聞きました。さびしい気がします。














昼といっても午後三時過ぎですから、おやつ代わりの醤油ラーメンです。ホントお腹が減りました。

ビクトリア調のタウンハウス













フィッシャーマンズワーフと有名なシーフードの露店。ここではアサリやカニをボイルしたのを売っている。カニはダンジネス・クラブ。ところで、ダンジネス・クラブというのは、ワシントン州のダンジネス湾で採れることからつけられた名前です。シアトルの方が本場です!!

夕食は霧のゴールデンゲートを北に渡ったところにあるサウサリートの町で食べました。ここは芸術家の町、そして坂出市の姉妹都市です。




夕食に食べたアヒマグロです。
二羽のかもめと一緒に食べました。
パンをあげたんです。
やっとホテルへ着きました。おやすみなさい。

Monday, September 3, 2007

ダンシング・ゴート

 今日はレーバー・デーの休日で、先週末からの三連休最後の日です。夏最後の三連休を毎日ブログ書きに費やしているのはなんとも味気ないと思いつつも、せっせと書いています。

 昨日はちょっと堅い話を書きましたので、今日は午後のひと時をコーヒーでも飲みながらお過ごし下さい。

 オリンピアの隠れた名品の一つに、バドーフ & ブロンソン珈琲焙煎社の珈琲があります。この会社のブランド名は、ダンシング・ゴート(Dancing Goat)と言います。踊る山羊です。

 なぜ、ダンシング・ゴートなのか。それはコーヒーが発見された由来から来ています。

 昔、エチオピアの高原にカルディー(Kaldi)という山羊飼いがいました。ある日、彼の山羊が興奮しているのに気づきました。山羊の興奮は夜になってもおさまりません。彼がその理由を調べてみると、山羊が高原になる赤い木の実を食べたためだということが分かりました。興味を覚えたカルディーが、恐るおそるその赤い実を食べてみると、気分爽快になり、頭もすっきりとする気がしました。そこでカルディーは赤い実を持って修道院に行き、この不思議な話を僧に話しました。僧たちも食べてみると、やはり気分がさわやかになりました。夜も眠気に邪魔されず、修行に励むことができるようになりました。やがて、この修道院は「眠らない修道院」として有名になり、コーヒーが世界中に広がっていったそうです。

 ここで問題です。コーヒーを最初に見つけたのは誰でしょうか。カルディーというのが一般的な答えです。でも、それは人間の勝手な答え。山羊さんが怒るでしょう。「赤い木の実を見つけて、ずっと前から、コーヒーパーティを開いてたんは俺たちやで」と。そうなんです。コーヒーを飲んで楽しく踊る山羊さんに、コーヒー発見の敬意を表して命名したのが、ダンシング・ゴートというブランド名です。

 バドーフ & ブロンソン珈琲焙煎社です。向かって左へ回ってください。

テースティングルームへの案内とテースティングルームがあります。














 テースティングルームへの入口にある踊る山羊のカップル。コーヒー発見の功績を称えたモニュメントといったところでしょうか。 (向かって左が男性、右が女性。)
テースティングルームの内部です。ここではパネルにあるすべてのブランドを試飲することが出来ます。気に入らなければ買わなくても構いません。でも、美味しいからついつい買ってしまいます。お勧めは、独自ブレンドの「ダンシング・ゴート」です。













 ダンシング・ゴートはオリンピアに2軒の店を持っています。これがその内の1軒。ウオーターフロントのファーマーズマーケットの筋向いにあります。もう1軒はダウンタウンにあって、スターバックスと3軒離れた同じブロック内にあります。スターバックスよりもはるかに香もよく、美味しくて、お客も多いです。

お店の内部とカップのデザインです。個人的には左のデザインを気に入っています。

オリンピアにこられた時には是非味わってください。事前に知らせて頂ければ ご案内します。

Sunday, September 2, 2007

帰国子女と日系人

 この夏、私の事務所にYukaとShoという早稲田大学の学生が二人インターンに来てくれました。早稲田大学はワシントン大学と提携を結んでいて、20名から30名の学生を1年間留学させる制度を持っています。早稲田の学生ですが、ワシントン大学で1年間勉強し、単位を取らなければ、早稲田を卒業することができず、また、ワシントン大学での成績がそのまま早稲田大学での成績になるというプログラムです。

 このプログラムではワシントン大学が学生にインターンシップを義務付けているので、二人が私の事務所にやってきたのです。偶然ですが、彼らはどちらもカナダのバンクーバーからの帰国子女で、バイリンガルでした。(もちろん、早稲田のこのプログラムに参加している学生のほとんどは、帰国子女ではありません。)

 YukaもShoもとても優秀な人で、いっしょに仕事をしたり、出張に出かけたり、わずか3ヶ月足らずの期間でしたが、彼らとの思い出がいっぱい出来ました。今でも、とても懐かしく感じていますので、二人の思い出については、別に書く機会もあると思っています。でも、今日は別の話。二人を見ていて感じたことが主題です。

 先ほど書いたように、二人は完全なバイリンガルです。(カナダ育ちですから、アメリカ的に言えば、イギリス英語に少し近い、カナダ英語を話します。カナダ人から見れば、アメリカ人はアメリカなまりの英語を話します。)

 事務所があるシアトルには日系人がたくさんいて、彼らとはよく仕事で一緒になります。10月12日にある研ナオコさんのチャリティコンサートの関係でも今彼らと一緒に仕事をしています。これについては別の機会にお話しすることにします。

 バイリンガルに育った帰国子女と日系人を見ていて気づいたのは、「何にも違いがあらへんやん」ということです。日本の帰国子女とアメリカの日系人。言葉で聞くとすごく違うし、日本社会の中では、まったく違うと感じる人がほとんどだと思います。でも、彼ら自身の目から見れば、お互いに違和感などないはずです。それはそうでしょう。日系人でも日本語と英語のバイリンガルに育った人を想像してみてください。私の隣の事務所にもそのようなバイリンギャルというにはキャリアをもう少し長く積んでいる女性がいます。日本語しかできない日本人とこのような日系バイリンキャリアウーマンがしゃべった場合、日本人はなんの違和感も感じないでしょう。親戚が東京にいて、日本のあちこちを旅し、日本食をこよなく愛しているグルメですから、「私は日系アメリカ人二世です」などといわれなければ、アメリカ人であることすら気がつかないはずです。

 日本とアメリカのどちらの言語も文化も身につけた、アメリカからの帰国子女とアメリカの日系人の唯一の差は、一方が日本国籍を持ち、他方がアメリカ国籍を持っているというだけです。もし、二重国籍を持っているアメリカ帰りの帰国子女が成人してアメリカ国籍を取得したら、その人はその瞬間から日系アメリカ人になると言うことです。(ちなみに、アメリカやカナダは二重国籍を認めていますから、こちらサイドではこんなことは起こりませんけど。)

 このような人たちにとっては、太平洋という大きな海も、瀬戸内海ほどの隔てにも感じられないでしょう。飛行機で10時間かかるということとチケット代を度外視すれば、シアトルのコンビニで買い物をした後、飛行機に乗って神戸に行きしゃれたレストランで食事をするのは、隣町に食事に出かけるのとなんの変わりもありません(その逆の場合でも同じです)。

 中国帰りのバイリンガル帰国子女と日系中国人、いや日本に暮らす華僑の人たちも含めて同じことが言えますし、タイやベトナム、フランスやイタリヤ、ケニアやブラジルなど世界中の国で生活し、その国の言語と日本語のバイリンガルに育った帰国子女にとっては、その言語を話す国の人との差異はほとんどないのです。

 アメリカには現在約23万人(カナダには約1万5千人)の長期滞在の日本人がいると言われています。そのうちの仮に1年に1割の家庭でバイリンガルが一人育っても10年経てば、アメリカの日系人とまったく区別がつかない日本人が23万人育ちます。

 今はまだこのような帰国子女は日本社会ではマイノリティかもしれません。が、彼らは日本社会で確実に増え続け、徐々に言語ができる優位性を発揮して、色々な場面で活躍し、社会の重要なポジションでなくてはならない人々になって行くでしょう。

 幼児期における語学教育の必要性を強く意識している人たちが日本でも増えだしましたが、未だに学校教育の場面ではそれが実現していません。このままでは、親の仕事の関係で海外で帰国子女として育つことができた人たちとそのようなチャンスに恵まれず、学校教育でも幼児期から語学を学ぶチャンスを与えられなかった人々の間で、将来、社会的な不平等と格差が生じることになるでしょう。それは日本の政府と各自治体が担うべき課題です。

 幼児期から外国語教育をすると、日本語教育がおろそかになって日本人としてのアイデンティティの形成に問題があるという意見を語る人があります。でも、このような意見は、外国で生活したことがないか、留学経験くらいはあってもその国で生き抜いたことのない人の机上の空論です。当然のことですが、早稲田からやってきたバイリンギャルのYukaやバイリンボーイのShoは、日本で育った他の学生よりも強く日本人としてのアイデンティティを持っています。なぜ、当然なのかは、改めて話します。


 写真(上から順に)

  1.ワシントン大学校門(45番通りからの入り口)
  2.ワシントン大学キャンパスにある噴水
  3.Shoが両親と暮らしていたバンクーバーの家(左側の白い家)
  4.YukaやShoが育ったバンクーバーの住宅地(二人が近くで育ったことが、
    シアトルに来てはじめて分かった)

Saturday, September 1, 2007

ブラックベリー

 今日から9月。この時期になるとオリンピアではブラックベリーの実が熟します。この辺りで取れるキイチゴには、ラズベリー、ブルーベリー、そしてブラックベリーがあります。キイチゴにはほかにもボイズンベリーやハックルベリーなどがありますが、この辺りでは見かけません。

 ハックルベリーは同じワシントン州でも東のアイダホ州近くのスポケーン辺りが産地です。スポケーンやそこから東へ30分ほど車で走ったアイダホ州の避暑地コーダレーンではいろいろなハックルベリー製品を売っています。シロップ、ジャム、そしてなんと言っても、珍しくて、美味しいのはハックルベリー・ビール。

 近々スポケーンに行きますので、この話は改めて書くことにします。

 オリンピアやシアトル周辺では、ブルーベリーは農園でも栽培されていますが、一般の家でも植えているところが多く、毎年、7月初めから8月終わりにかけて青いきれいな実をつけます。日本では猛暑だった今年の夏も、オリンピアやシアトルでは最高温度が30度を超えることはめったになく、朝晩などは12~3度くらいまで下がることがたびたびありました。この辺りの気候は、信州でも美ヶ原や戸隠といった高原地帯に近いようで、湿気がもっと少ないので、いっそう涼しく感じます。このような気候がブルーベリーには適しているのでしょう。ただ、ブルーベリーの場合は、道端や森に自生していると言うわけではありませんから、農園や家で植えなければなりません。


 でも、ブラックベリーは違います。ブラックベリーとオリンピアで言えば、雑草の代名詞です。上の写真のように、空地などでは密生しています。ある会議の帰り道、シアトルの街を事務所に向かって歩いている時に、旅行姿の女子大生に呼び止められました。彼女はマサチューセッツ州ボストンからシアトルに観光に来ていたようです。手に持っている観光ガイドブックを開きながら、「ブラックベリーはどこへ行ったら見られますか。このガイドブックにはシアトルの見所のひとつだと書いてあるんですけど。」と訪ねられました。この辺りでは、ブラックベリーは、どこに行ったら見られるか、ではなく、どこに行っても見れる、ものです。とは言っても、住宅地でならともかく、ビルの立ち並ぶ街中ではさすがにブラックベリーを見つけるのは難しい。幸いにも、近くの駐車場のコンクリート壁と地面の隙間からブラックベリーが生えている場所を思い出し教えてあげました。

 このように、ブラックベリーはオリンピアやシアトル、いやワシントン州西部ではどこに行っても見ることができます。ちょっと目を離すとブラックベリーは庭にも自生します。非常に繁殖力が強いので、庭に出てきたブラックベリーは放っておくとたちまちその周辺を独占してしまいます。棘があり、根がはっているので、抜くのに一苦労するというやっかいな雑草なのです。もちろん、スーパーで売っているブラックベリーは、販売用に農園で栽培されたものですが、わざわざ買わなくても、その気になれば、バケツに1杯や2杯は簡単に空き地で採取できます。

 6月の終わりから7月はじめに花が咲きます。棘があり、実は黒いくなるのですが、花は白く、かれんです。7月終わり頃から小さな緑色の粒の塊(これが実になります)がつきはじめ、8月中旬頃になると赤く色が変わり、熟してくると黒く変わります。一つひとつの粒が大きくふくらんで、さわるとふわっとした感触を持ち始めたものが食べごろです。

この時期にシアトルやオリンピアなどへ来られたときは、道端のブラックベリーを摘んで見てはいかがでしょうか。

 ブラックベリーがいっぱい実をつける頃、こちらでは小学校から高校まで、いっせいに始業式を迎えます。学校の始まりは、毎年、レーバーデー(休日)の翌日からです。今年は9月3日月曜日がレーバーデーですから、9月4日から学校が始まります。

 ブラックベリーの実がなる頃、子供たちにとっての長い夏休みが終わります。

ブラックベリー








 今日から9月。この時期になるとオリンピアではブラックベリーの実が熟します。この辺りで取れるキイチゴには、ラズベリー(右下)、ブルーベリー(左下)、そしてブラックベリーなどがあります。キイチゴにはほかにもボイズンベリーやハックルベリーなどがありますが、この辺りではあまり見かけません。

 ハックルベリーは同じワシントン州でも東のアイダホ州近くのスポケーン辺りが産地です。スポケーンやそこから東へ30分ほど車で走ったアイダホ州の避暑地コーダレーンではいろいろなハックルベリー製品を売っています。シロップ、ジャム、そしてなんと言っても、珍しくて、美味しいのはハックルベリー・ビール。

 

 近々スポケーンに行きますので、この話は改めて書くとして話をもとに戻します。
オリンピアやシアトル周辺では、ブルーベリーは農園でも栽培されていますが、一般の家でも植えているところが多く、毎年、7月初めから8月終わりにかけて青いきれいな実をつけます。日本では猛暑だった今年の夏も、オリンピアやシアトルでは最高温度が30度を超えることはめったになく、朝晩などは12~3度くらいまで下がることがたびたびありました。この辺りの気候は、信州でも美ヶ原や戸隠といった高原地帯に近いようで、もっと湿気が少ないので、いっそう涼しく感じます。このような気候がブルーベリーにはあっているのでしょう。ただ、ブルーベリーの場合は、道端や森に自生していると言うわけではありませんから、農園や家に植えなければなりません。

 でも、ブラックベリーは違います。ブラックベリーとオリンピアで言えば、雑草の代名詞です。ある時、会議の帰り道、シアトルの街を事務所に向かって歩いている時に、旅行姿の女子大生に呼び止められました。彼女はマサチューセッツ州ボストンからシアトルに観光に来ていたようです。手に持っている観光案内本を開きながら、「ブラックベリーはどこへ行ったら見られますか。この案内本にはシアトルの見所のひとつだと書いてあるんですけど。」と訪ねられました。この辺りでは、ブラックベリーなど、どこに行ったら見られるか、ではなく、どこに行っても見れる、ものです。とは言っても、住宅地でならともかく、ビルの立ち並ぶ街中ではさすがにブラックベリーを見つけるのは難しい。幸いにも、近くの駐車場の壁際にブラックベリーが生えている場所を思い出し、教えてあげました。

 このように、ブラックベリーはオリンピアやシアトル、いやワシントン州西部ではどこに行っても見ることができます。ちょっと目を離すとブラックベリーは庭にも自生します。非常に繁殖力が強いので、庭に出てきたブラックベリーは放っておくとたちその周辺を独占してしまいます。棘があり、根がはっているので、抜くのに一苦労するというやっかいな雑草なのです。もちろん、スーパーで売っているブラックベリーは、販売用に農園で栽培されたものですが、わざわざ買わなくても、その気になれば、バケツに1杯や2杯は簡単に空き地で採取できるものです。


 6月下旬から7月上旬にかけて花が咲きます。実は黒い色になりますが、花は真っ白で、房になって咲きます。8月になると青い実がなり始め、しだいに紅くなり、最後に黒くなります。黒い粒が大きく軽く押すとつぶれそうになる頃が一番の食べごろです。

 




この時期にシアトルやオリンピアなどへ来られたときは、道端のブラックベリーを摘んで見てはいかがでしょうか。

 ブラックベリーがいっぱい実をつける頃、こちらでは小学校から高校まで、いっせいに始業式を迎えます。学校の始まりは、毎年、レーバーデー(休日)の翌日からです。今年は9月3日の月曜日がレーバーデーですから、9月4日から学校が始まります。
 ブラックベリーの実がなる頃、子供たちにとっての長い夏休みが終わります。