前回は、新型インフルエンザへのアメリカの対応について書きました。今回は、なぜ、そのような違いが生じたのかについて少し感じたところを書いてみようと思います。日本でも、新型インフルエンザ騒動が一段落したら、誰かが「豚インフルエンザ狂詩曲」などというタイトルで、なぜ、日本では大騒動をしたのか、についてタイトルは別にして批評が出るだろうと思います。出なければ日本社会はやはりどこかおかしいということになるでしょう。
新型インフルエンザに対するアメリカの対応や市民の反応と日本のそれを比較してみると、「個人」、「マスコミ」、そして「政府」の対応に大きな違いが見られます。
まず、個人の反応ですが、これを掘り下げて考えて行くと、日米文化論のような長い文章になってしまいますから、ここではひとつの現象だけを書くことにします。
売切れ続出のマスクについてです。前回のブログで、アメリカでは「マスクは重病人が他人にウィルスをうつさないためにする」ものだと書きました。試したことがないので分かりませんが、アメリカではマスクをして歩いていると、多分、人はその人をさりげなく避けて(2メートル以上)通るでしょう。重病人か今から銀行でも襲うとしている犯罪者くらいしかマスクで顔を隠さないからです。アメリカで医師や看護士がマスクをするのは、病人に頻繁に接する彼らが、その患者の細菌やウィルスに感染しないための予防措置(もちろん、そのような場合もありますが)であるというよりは、自分たちがもしかしたら何かの保菌者かもしれないということも考慮に入れて、体力が弱っている患者に雑菌細菌やウィルスをうつさないためにするというのが主な理由です。日本でも、細菌やウィルスとは関係がない外科の患者の手術でも、医師や看護士がマスクをするのと同じです。ですから、アメリカの医療ものテレビドラマでもご覧になるように、医師が患者の家族(この人たちは健康体で体力が落ちていない)に症状を説明したりする時は、マスクをはずして話します。
もともと、アメリカ人たちは顔を人目にさらさないのは、失礼だと考えています。顔はその人の個性であり、「私」そのものです。つまり、ID(身分証明)という考え方です(日本でも同じ理由で、例えば運転免許書に写真が付いています。でも、この考えが日本ではアメリカほど個人のレベルまで浸透していません)。相手の人と話すのに自分自身の顔を隠すのは、自分の身分証明を見せないことと等しい、つまり、「私」がないと考えるわけです。「私」がないということは責任を取らないということと同義ですから、誰もそんな人間を信用して話してくれません。健康体の人は、犯罪者でない限り、マスクや布で顔をおおって人前に出ることは基本的にはありません。
今回の新型インフルエンザが本当に強毒性のものであったとしても、アメリカでは病気に感染していない人が街中マスクをつけて歩くことは、おそらくなかったでしょう。鳥インフルエンザの時にもマスクなどつけている人はいませんでした。 ひとつのダンディズムということが出来ると思います。一方、日本ではマスクは予防のためにしているようです。どこにウィルスがいるか分からないから、感染しないためにするわけです。芦屋の知人がくれたメールによると、「ビジネスマン(もちろんビジネスウーマンも)はみんなしてるで」ということでした。「しないで電車に乗ったら、変な目で見られた」、とも言っていました。日本では、相手のためにするのではなく、自分のためにするのです。その上、人がしていなければ、批判的なまなざしで眺めることまでするようです。
もちろん、マスクをするか、しないかは本人の自由ですから、他人がとやかく言う話ではありません。でも、京都に観光に来る学生たちが全員マスクをしていたり、商談に出向くビジネスマンがマスクをしている、極めつきは、神戸市長(今でもアメリカでは公式には知事や市長、議員には、Mr. Mrs. やMs. ではなく、”The Honorable”と尊称をつけて呼ぶ)にインタビューする記者が全員マスクをかけている。こんな光景や写真を見て、「日本人はすごい。重病患者なのに高校生は全員京都へ教育研修に出かけるし、ビジネスマンも働いている。新聞記者たちも高熱をおして取材している」と世界の人々が見てくれればいいですが、誰もそんな見方はしないでしょう。一種の集団ヒステリーに似た症状ですから、国際的な視点から見れば異常です。
何故か?新型インフルエンザの情報を聞いて、これば普通の季節性インフルエンザのような弱毒性のものか鳥インフルエンザのような強毒性ものかを知るのは個人の責任です。政府や地方自治体が市民に正確な情報提供を速やかに行う責任はあっても、それを知るのは個人の権利であると同時に責任でもあります。そして、弱毒性であろうが強毒性であろうが、新型インフルエンザが流行している地域に出かけるか、やめるかも個人の判断です。ですから、今回のように弱毒性のものであっても、うつるのがいやなら、マスクをしてまで教育研修に参加することはないわけです。アメリカの高校生なら平気で不参加だと学校に言うでしょうが、日本の高校生たちは、日本の学校の体質ゆえに、気の毒ですがその自由を認められていません。ですから、この場合は、個人の責任ではなく、学校組織の責任ということになりますけれど。
ビジネスマンや新聞記者の場合は、まったく個人のレベルで考えることが出来ます。少なくとも、大人なのですから。国際的な通念からいうと、新型インフルエンザにうつるのがいやならミーティングや取材に行かなければいいわけです。あるいは、今回の新型インフルエンザにも効果的な薬品があると分かっているわけですから、「もしうつっても、薬でなおるやろ。日本人は40度の熱が出たら参ってしまうようなひ弱な人間か」ということになります。
でも、もっと考えなければならないことは、相手の気持ちです。新型インフルエンザ患者が若干出たからといって、その地域の人全員が患者ではないし、自分がミーティングする相手や取材の相手はいたって健康な人たちです。その人たちの前に出るのに、マスクをしているということは、相手を一種の偏見で見ているのと同じ態度です。見方によれば、自分が感染したくないという身勝手な理由で、相手を何か強力なウィルスの保菌者のように見なしていることになります(もちろん、そんな気持ちはないのでしょうが)。まして、自分の素顔を見せないで相手と話をすることの無礼は最初に書いたとおりです。
日本人同士なら、「なあなあ」で済むと思いますが、いまや国際化が極端に進んでいる時代です。新聞やテレビだけでなく、インターネットの普及によって、どんなに小さな地域の情報でも瞬時に世界を駆け巡ります。日本の片隅の出来事がほとんど同時に世界に伝わるということは、自分の姿や行動が日本国内のみならず、世界中の人から見られているということです。
そのような時代と世界に生きているということは、日本国内にいる個人の行動が世界の人々の日本評価に直接つながるということであり、その世界の日本評価が個人の暮らしに直接影響してくるということです。神戸や大阪をマスクなしで歩いている少数の人々を変な目で見ている人々(世界から見れば、この人たちが少数)は、世界(少なくとも、アメリカ)の人々には変な目で見られているということです。(続く)
(写真)
今日のオリンピアは真夏のようでした。気温は23度まであがり、空は輝いていました。
上から順に、野ばら、オリンピアのウエストサイド(遠くにオリンピック山脈が見える)、レニア山(頂上部分は氷河)、リラ、石楠花、州政府キャンパス
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